2011年01月28日

聖書の寸鉄52「人はみな鏡」

お早うございます。
モトイです。

 新約聖書の第2コリント3章18節には、キリスト者が神と同じ形に姿を変えられる様子を、「鏡のように」神の栄光を反映させて「栄光から栄光へと」変えられると表現しています。人が「鏡のよう」であることはキリスト者だけに限ったことではありません。数年前に流行した野口嘉則著の「鏡の法則」にもあった如く、私たちは誰もが自分の心を外の世界に反映させて生きています。それと同時に私たちは誰もが、自分の見つめているものを心の鏡に反映させているのです。

野口嘉則氏の「鏡の法則」には「あなたの人生の現実は、あなたの心を映し出した鏡だ」と言う説明がされていました。そして自分が直面している現実を誰かのせいにしたり責任転嫁したりせず、あるがままを受け入れることが必要であると述べています。以前にもご紹介したように聖書にもこのような教えがあります。しかし決定的に違う点は神との交わりの有無です。
(以前の記事は下記を参照:聖書の成功法則(聖書の寸鉄)Bhttp://kirisutoinochi.seesaa.net/article/113007389.html?1296120047)

責任転嫁は甘美な麻薬です。なぜなら現状の不満を全て自分以外の何かのせいに出来るからです。そうすることによって人は本能的に自分を守り、「仕方がなかった」と言う低いレベルの諦めの境地に達することが出来ます。

責任転嫁する人は自分が被害者であるため、自分の行動は常に受動的になる傾向があります。積極的に行動しても「何か」が邪魔をして「仕方がなかった」という結果になってしまうと思い込んでいるからです。

「鏡の法則」や「引き寄せの法則」などによって一時的に自分の心にやる気や積極的な思いを受け入れたとしても、決してそれは長続きすることはありません。なぜならその行為は今までと同じように、外の世界の考え方を自分の内側に受け入れるといった「受動的」な行動であるからです。つまり一時的にその人が変わったように見えても、「受動的」な行動様式は全く変わっていないのです。そこでその人はいつもしているように受動的に新たな考えを受け入れても、さらにまた別の「何か」を自分の邪魔をするように受け入れてしまい、「仕方がなかった」と言う結果を作り上げてしまうのです。

このような私たちを変えるのは、外側からの影響ではありません。私たちを内側から変える方はイエス・キリストです。この方を自分の内側に受け入れない限り、私たち人間は自分の内側よりあふれ出る悪いものの影響を受け続けることになります。

私たち人間は誰もが鏡のような存在です。私たちはこの鏡を常に何かに向けています。そしてその鏡が反映するものの影響を常に受け取っています。

それと同時に私たちの内面は外側に反射します。逆に言えば外側の世界は私たちの内面の反映です。

イエス・キリストを信じ受け入れることは、あなたの内面に積極的な基準を招き入れることです。この方との交わりを持つことによって私たちは「鏡のように」キリストの栄光を反映し、「栄光から栄光へと」変えられて行くのです。

人はみな鏡のような存在です。イエス・キリストという救い主である神を自分のうちに招き入れ、自分の内と外の世界を積極的に変えて行きましょう。

あなたがキリスト者なら今日もこの方との交わりを常に保ちましょう。そしてキリストを中心とした積極的な行動の日々を送って下さい。

あなたがまだこの方との関係をもたないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。世の自己啓発や成功哲学ではあなたは変わることができません。ただキリストとの交わりだけがあなたを積極的な人へと変えます。






神と人の本当の関係.WAV




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2010年04月26日

聖書の寸鉄51「人の持つべき本来の力」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんが神の愛を受け取りますように。

 人が救い主である神、イエス・キリストによって神と和解すると、その人は人本来の姿に回復されます。キリストを信じることは天国に行くために必要なのではなく、今を生き抜くために必要なことです。人が人本来の姿に回復されることは、私たち人間が生きていくうえで必要なことなのです。

ところが聖書には、本来私たちが生きていくうえで必要な神との和解を、神ご自身が懇願していると記されています(第二コリント5章18節〜21節)。それは本来の姿からかけ離れて、迷える子羊のようになってしまった人間に対する神の憐れみによります。人は本来神のもとに逃げ帰り、そこから力を受けてまた世の中で生きていくように造られているのです。

そのことを示すために旧約聖書のネヘミヤ書8章10節の次の言葉を引用します(口語訳より):

主(神)を喜ぶことはあなたがたの力です。


この聖句のさす主という言葉は、全世界を造られた創造主である唯一の神のことを指します。本当の神を喜ぶことが私たち人間の力であると、この聖句は述べているのです。

さらにこの時「力」と訳された旧約聖書の原語のヘブル語は、「マーオウツ」という単語で、防御が強められた場所という意味で、要塞や砦をも意味します。すなわち全世界と人間を作られた神を喜ぶことは、私たち人間にとって逃げ帰るべき砦の役割を果たすのです。

世の中で生き抜くために時として私たちは、自分だけでなく他人の罪の影響さえ受けて傷ついてしまいます。現代社会はその傷がまたさらに傷を生み、罪が罪を生み出す泥沼と化しています。人々はそんな自分を強めようと自己啓発のセミナーに通ったり、成功哲学の本を読み漁ったりしています。また別の人は疲れた自分を癒そうとセラピーやカウンセリングを受けたり、ヨガや瞑想のような内観の旅に出ようとしたりしています。しかし根本的な問題は解決しません。

私たち人間が抱える根本的な問題とは、神と自分を隔てている罪の問題です。この問題がある限り私たちは本来の自分らしさを獲得することができません。

イエス・キリストは全人類の罪の問題を十字架上で解決され死なれました。これはおとぎ話や比喩の問題ではありません。イエスは実際にあなたや私の罪を十字架上に背負って、罪の結果である死を引き受けてくださったのです。そればかりかイエスは、あなたが神と和解をした後に活き活きと生きるために、死の三日後によみがえりました。私たちは信じるだけでイエスのいのちを受け取ることができるのです。

ところが人は自分の本来の姿を知らないばかりか、今のみじめな姿さえ理解していません。本当は滅びに向かって突き進んでいるのに、私たち人類はそのことに気づかずに目に見えていると思っている世界にとらわれて生きています。それはちょうど盲人が崖に向かう一本道を、酒によってずんずん突き進む姿に似ています。

ある盲人は不安げに前進します。しかし別の盲人は勇気を持って大胆に前進します。しかしどの盲人もこの世の酒に酔わされて滅びの道をまっすぐに突き進んでいます。

そのような私たち人間を救おうと、神は懇願してまで私たちとの和解を望まれます。なぜなら神は愛であるからです。そしてイエス・キリストの十字架は、神の愛を私たちにいのちがけで示した死と復活の象徴です。

私たちが救い主である神、イエス・キリストを信じ受け入れることは私たちの目を開き、滅びの道から救います。そればかりか、神という要塞の中で過ごすことにより、この世の中にあっていのちを豊かに受けて生きることができるのです。

あなたもイエス・キリストを信じ受け入れ、神を喜ぶことによる力を受けて歩んでください。

あなたがキリスト者なら、今日もこの方を喜びこの方を砦として歩みましょう。この方との交わりは私たちを安全に導きます。

あなたがまだこの方との関係を受け入れていないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方以外にあなたの本来の姿を回復する方はいません。







 
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2010年04月14日

聖書の寸鉄50「持つべきビジョン」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんが神の祝福を受けますように。

 漢字で、「人」の「夢」と書いて「儚(はかな)い」と読みます。人の夢や希望は儚いものだと、昔の人も考えたのでしょうか。現代でも「理想」ということばを反対語辞典で引けば、「現実」と出てきます。人の理想はしょせん儚い夢なのでしょうか。

しかしビジョンを持って歩むべきことは、数々のビジネス書に書いてあることです。目標がないと自堕落になり、時代に流されてしまいます。同じことを聖書でも、「幻がなければ民は堕落する」と表現されています。やはり理想を掲げ、志をしっかりと持って歩むべきでしょう。

でもビジョンを掲げた人の誰もがそれを実現しているわけではありません。自分の判断が間違っていたり、正しくない目標を掲げてしまったりすれば、芳しくない結果を呼びこんでしまうでしょう。聖書はあなたが正しいビジョンを掲げるために、次のように教えています(ピリピ2章13節):

神は、御心のままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。


 この聖句によると、私たちが掲げるべき、実現できる志は神から与えられることになります。そしてそのビジョンを実現するのも、神が私たちを通して行わせてくださるということが分ります。

どんなに素晴らしいビジョンでも、神とつながらないところでは行うことができません。私たちは途中で疲れ果て、ビジョンを掲げることも忘れて時代に流されてしまうでしょう。そのような経験をした人は大いいのではないでしょうか。

私たちが途中で疲れ果ててしまうのは、いのちを与える神との接触が途絶えているからです。イエス・キリストは「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と語られました。私たち人間はイエスという道を通して真理である神とつながり、いのちとビジョンを受け取る必要があるのです。

あなたがもし信じるのなら、今日があなたにとって神と出会う日となります。神はあらゆるものを通してあなたに語っています。

イエス・キリストを心の中心にお迎えし、あなたも今日この方に出会って下さい。

あなたがキリスト者なら、今日もこの方との交わりを絶やすことなく、祈りの一日を過ごしてください。主はあらゆることを用いてあなたに語り、あなたを祝福します。

あなたがまだこの方を知らないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れ、この方を知る神との交わりの中に自分を置くことを強くお勧めします。この方から来るビジョンを掲げ、日々この方と共に歩んでください。








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2010年03月25日

聖書の寸鉄49「調教から解放されるためには?」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんが神の祝福を受けますように。

 今は俳句がブームだそうです。そのブームの先駆けであったのか、何年か前に何気なくテレビを見ていると、「俳句甲子園」という番組をやっていました。高校生が学校を代表して俳句を作るといった内容でした。そこで発表された俳句の一つに、「かくたびに 自由へ向かう 平泳ぎ」というのがあり、私は思わず「うん、うまい」と声を出して褒めました。のびのびと平泳ぎをするさまが思い浮かべられて面白いと思ったからです。

海のような広い所で、大きな円を描くように手で水をかき、力強く泳いでいるようなイメージが湧いてくる、生き生きとした良い俳句でした。私自身の高校時代にはそのような自由でのびのびとした思い出がなかったので、その高校生を少し羨ましくも思いました。

ところが次の場面で私は興ざめしてしまいました。対戦相手である攻める側の高校生が、この俳句について批評をし、欠点を指摘したのでした。曰く「この句の中の自由とは、何に対する自由なのかはっきりしておらず、抽象的過ぎるのではないか」とのこと。さらに守る側として、この俳句を作った高校生のチームが応戦しました。曰く、「この自由とは感覚的自由であって、何かに特定された自由である必要はない」とのことでした。

せっかくのびのびと俳句を吟じたのに、それを攻撃したり守ったりすることによって競う材料にする。それがこの「俳句甲子園」の番組名の意味でした。やはり今の高校生にも私が羨んだ自由はないようでした。彼らを見ながら以前ご紹介した、ノミのサーカスのノミたちを思い出しました。(聖書の寸鉄Q「あなたの可能性を否定するもの」蚤のサーカスよりhttp://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114747187.html?1269421665

ノミのサーカスとは実際にあった見せものだそうです。調教され飛ぶ高さを限定されたノミが、高跳びをしたりのそのそ歩いて競争したりするそうです。本当は体の何百倍もの高さを飛ぶノミが、人間の都合で飛ぶ高さを調教され見世物にされます。「俳句甲子園」でチラリと見せた高校生の若いのびのびとした感覚が、競争社会に組み込まれることによって周りの都合のよい程度にまで縮められてしまう。そう思うととても残念に思いました。

しかしこの番組を作ったスタッフも、さらに私を含めたその他大勢の大人たちも、この高校生と同じように自分たちの限界を周りに押し付けられてしまった、可哀想なノミたちなのかもしれません。私たちは誰もが知らず知らずのうちに可能性を押さえつけられて生きています。そう考えると問題なのは、自分たちがもっと飛べるということを忘れてしまったことにあるのだと思います。

聖書は人が神の似姿に造られたと教えています。確かにエデンの園でアダムとエバは、神様の「産めよ増えよ、地に満ちよ。地を従えよ」という命令を受けて、神の前でのびのびと大胆に生きていました。ところが罪のゆえに神から離れた途端に、こそこそと神を恐れ逃げ隠れするようになってしまいました。大胆にのびのびと生きていた人間が、恐れて小賢しく生きるようになったのです(創世記2章3章)。

このことは現代人にも当てはまります。私たちが堂々としていられないのは、私たちの心の中に恐れが入り込んだためです。私たちが小賢しく生きるのは、本当の知恵の源である神から離れてしまったためです。しかし現代人はそのことにさえ気づかずに、飛べなくなったノミとして、自分の限界を当たり前のこととして受け入れてしまっています。私たち人間はもっと大胆にのびのびと生きることが出来るのです。

聖書は恐れる原因である神に対する無知を払拭するために、次のように教えています(ヘブル4章15節16節):

私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。


 何事かに対して恐れる心を取り除くためには神との和解が必要です。あなたが自分本来の姿を取り戻し、のびのびと生きるためには、神に対する大胆な悔い改めと和解を必要としています。

イエス・キリストはあなたが本来のあなたを取り戻すために十字架にかかり死んでくださいました。それはあなたと神との間を隔てている罪の処分のためでした。そして死後三日目によみがえられたのは、あなたが神の前で大胆にのびのびと生きるためのいのちを与えるためでした。

あなたもイエス・キリストによって神と和解をし、本来のあなたらしさを取り戻してください。

あなたがキリスト者なら、今日もイエス・キリストによって神に大胆に近づきましょう。この方を喜ぶことは私たちの力、私たちの安全です。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。神と和解をすることが本来のあなたを取り戻す第一歩です。






 
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2009年11月10日

聖書の寸鉄48「揺るがされないあなたになるために」

 人には喜怒哀楽があるものです。しかし私たちはそれぞれ、何に喜怒哀楽を感じるかは異なっています。ある人はいつも楽しそうで、ある人はいつも怒っており、ある人は人生は悲しいものと達観していたりします。それぞれ同じ環境に置かれても、その人その人で心の持ちようは違います。古代イスラエルの賢王ソロモンは「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」と教えます(箴言4章23節)。私たちの心は周りから影響されやすいものです。しかし常に良い影響ばかりではありません。常に心を見張り、私たちの心を良い状態に保つのは、私たち自身の役目です。

 賢王ソロモンはまた、私たちがこの泉を撒き散らし、他国人が奪ってしまうことがあるとも警告しています(箴言5章15節-17節):

あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。
あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。
それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他国人のものにするな。


 他国人とは誰のことでしょうか。あなたの同朋ではない人々、あなたと価値観の異なる人々、あなたと喜怒哀楽の基準が違う人々のことです。またもっと深い聖書的な理解では、魂の敵である悪魔や悪霊のことでもあります。あなたがすでに受けている良いものから目をそらさせ、あなたを神の恵みから離そうとする勢力、それが聖書の言う魂の敵です。イエス・キリストは自分の来た目的と、サタンの目的について次のように言っています(ヨハネ10章10節):

盗人(悪魔や悪霊)が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。


 私たち人は、飼い主のいない羊のようにさまよっています。何を心の頼りにして良いのか分からず、目に付く様々な者を手当たり次第に心に入れてみます。しかしこころに平安が来ないのは、私たちの心からいのちの水を湧き立たせるお方はたった一人、イエス・キリストのみだからです。この方をこころに迎え入れることによって人ははじめていのちの泉を湧き立たせることが出来るのです。

ヨハネ福音書4章14節
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。


 人には喜怒哀楽があるものです。私たちは周りの世界から影響を受け、心を揺さぶられます。しかしイエス・キリストを救い主として信じる者は神の与えるいのちの泉を心の内に持ちます。この泉はあなたに力を与えます。この泉を頼ることによって私たちは周りの世界に翻弄されず、いつでも自分らしさを輝かすことが出来るのです。

 あなたもイエス・キリストを心に受け入れ、あなた自身の素晴らしさを輝かせて生きてください。

 あなたがキリスト者なら、すでに与えられているいのちの泉を湧き立たせ、イエス・キリストとともに世を照らす光として輝きましょう。あなたの心をしっかりと見張り、イエス・キリストの感動を湧き立たせましょう。この方こそ私たちの希望です。

 あなたが未だこの方とつながっていないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方こそあなたの心に欠けていた平安、心の支えです。一刻も早くこの方を受け入れ、魂の敵から心を守ることを決断してください。

 今日もこのブログを訪れて下さり有り難うございます。

 皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの恵みと導きが大いに降り注ぎますように。



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2009年11月06日

聖書の寸鉄47「あなたのいるべきところ」

 新約聖書の書かれた言葉であるギリシャ語の単語に「ケイーマイ」という単語があります。この単語はイエス・キリストが生まれてすぐに飼葉おけに寝ていた記述の中で、「寝る」という意味で使われています。この時「ケイーマイ」はゆったりとリラックスして「横たわる」という意味で使われています(ルカ2章16節)。

 同じ章の中でこの「ケイーマイ」は別の意味で用いられています。それは以下の聖書箇所です(ルカ2章34節):

また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。…」


 シメオンはこの中で、イエスがイスラエル人の多くが倒れまた立ちあがり、反対を受けるしるしとなるように定められていると預言して言いました。このときの「定められる」という言葉が「ケイーマイ」です。

 イエスが定められていたのは、人類の救いを完成するために十字架で死を体験されることでした。イエスは罪が無いのに罪ありとされ、十字架上で人々に馬鹿にされののしられ、自分の弟子たちからも見放されてひとりにされました。そのような定めにあったイエスを、リラックスして横たわると言う意味もある「ケイーマイ」で表現してあるのは、彼の定めが神の計画の内にあったからです。

 誰でも人には神の計画があります。しかし人は神から離れてしまっているので、神の計画が分からないばかりか、神のことさえ見えなくなってしまっています。人は神から離れてしまったゆえに、自分の道を自分で切り開こうとしてもがきます。少しはうまく行く人もいるでしょうが、しかし神から離れた人生は結局は滅びに至ります。そのような人生には安心して横たわるような平安は有りません。

 しかしイエスのように、神との関係の内にある定めに従う者は、神の計画の中で安心して身を横たえることが出来ます。イエスの弟子であり、度重なる迫害や苦難の中にあった使徒パウロは次のように断言しています(ローマ8章35節〜37節):

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。


 実際パウロが受けた艱難は凄まじいものでした。その中にあってこのように宣言できるのは、彼がキリストと共にある平安を受けていたからです。キリストに対する感動は、彼がどんなに苦難に遭遇してもそれをものともしないほどに彼を強くしていたのです。パウロはさらに次のように続けて宣言しています(38節39節):

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 あなたは今どこにいますか。あなたが今どのような環境にあったとしても、神の定めを受け入れるのならば平安の内にどんな難局をも乗り越えることができるのです。

 あなたは神とともにこの世を生きるように作られているのです。この定めを受け入れて、神との交わりの中で平安の内にあなたの人生を歩んでください。

 あなたがキリスト者なら、今日もあなたへの導きを受け取るために、神との交わりの内を歩んでいきましょう。この方は必ずあなたを平安とともに導きます。

 あなたがまだこの方を受け入れていないのなら、今すぐにイエスキリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。人は神とともに歩むように作られています。この定めから逃げることなく、神の平安を受け入れてください。

 今日もこのブログを訪れてくださり有り難うございます。

皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの確かな導きがありますように。


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2009年11月02日

聖書の寸鉄46「なぜ人生に戦いがあるのか」

 戦国時代の武将の上杉謙信は、出陣する際にはいつも城に蓄えてあった食糧を領民に振舞い、大宴会を催したそうです。そのために領民たちは突然の出陣の合図に緊張はしても、ご馳走が食べられるということが脳裏に浮かび、自然と士気は高まったそうです。

 聖書の中で勇者として扱われるダビデ王も、神が敵の前で彼のために食事を整えてくださると告白しています(詩篇23篇5節)。神とダビデは戦いの前に、敵の前で悠々と宴会を張るわけです。

 私たちは日常生活の中で戦っています。ある人は仕事上の問題で戦い、ある人は金銭的なことで戦い、ある人は人間関係で戦っているでしょう。また、心や体の病で戦っている人々もいます。その戦いは時として私たちを打ち負かすかのように見えます。そして戦いを避けることは出来ません。なぜでしょうか。

 それは、その戦いが誰の戦いなのかをあなたが自覚するためです。その戦いはあなたの戦いではありません。あなたが戦っている以上、その戦いはあなたに覆い被さり続けるでしょう。その戦いは神があなたに、神の存在を気付かせるための戦いです。その戦いは主なる神のものなのです。あなたは神の存在を受け入れ、自分の戦いを神に委ねなければならないのです。聖書には次のように書いてあります:

主(神)はいくさびと、その御名は主(出エジプト記15章3節)。
主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない(出エジプト記14章14節)。


 優秀な人ほど自分自身で何とか戦おうとします。打ち負かされそうになっても、誠実な人ほどなおさら自分の力で戦おうとします。しかし最も素晴らしく、最も誠実な態度とは、自分の弱さ、つたなさを認め、自分の人生に神の介入を求めることです。

 神を受け入れた者にさえも戦いはあります。戦士であり勇士であったダビデ王も次のように告白しています(詩篇31篇22節):

私はあわてて言いました。「私はあなたの目の前から断たれたのだ。」と。しかし、あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに。


 神を見つめながら歩んでいたダビデさえも、災いが襲ってきた時には神に見捨てられたと感じました。しかし彼は神に叫びつづけました。その理由は、彼が自分の戦いは自分では戦えないと知っていたからです。すなわち、どんな戦いもそれは主なる神のものなのです。

 あなたは今どんな戦いの中にいますか。もしあなたがその戦いを自分の戦いとするならば、あなたは孤軍奮闘し、援軍の来ないままに篭城しなければならないでしょう。しかしあなたの戦いを神に明け渡す時、あなたの戦いは神の手の中に返り、あなたは神とともに敵の前で大宴会をすることになるでしょう。

 イエス・キリストを受け入れ、この方があなたの人生に介入することを受け入れて下さい。

 あなたがキリスト者なら、今日もあなたの戦いを主に委ねましょう。主は必ずあなたを守り導きます。

 あなたが未だこの方を受け入れていないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方のみがあなたの救いです。

 今日もこのブログを訪れて下さり有難う御座います。

 皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの祝福が豊かに注ぎますように。



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2009年10月30日

聖書の寸鉄45「活き活きとした行動が呼ぶ神の助け」

 旧約聖書のヨシュア記1章2節で神はイスラエルの2代目リーダーであるヨシュアに、次のように言っています:

わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。


 この言葉はイスラエルの民が約束の地に入る直前に語られた神の言葉です。約束の地とは神がイスラエルの民に与えると約束された、祝福された繁栄の土地です。今後、ヨシュアとイスラエルの民は神の助けによって約束の地を征服していきます。彼らの戦いは神の戦いでした。しかし神はただ神が約束の地を彼らに与えるのを待つようにとは言われませんでした。むしろ神は彼らに、川を渡って進んで自分の身を約束の地に置くことを望んだのです。

 この時の神の第一の命令は川を渡ることではありませんでした。この時の第一の命令は「立つ」ことでした。川を渡るのに座ったまま渡ることは出来ません。寝たまま渡ることも無理でしょう。しかし神はわざわざ「立って」渡るようにと命じました。なぜでしょうか。

 ここで使われている「立って」という言葉の原語は、「コーム」というヘブライ語です。この「コーム」には、活き活きとしたアクションをとるというニュアンスが含まれています。したがって神はイスラエルの民に、約束の地に入る前に活き活きと川を渡り、堂々と神の約束の地に身を置くように命じられたのです。

 聖書には人に対する様々な神の祝福の約束があります。それらの約束もただ一方的に神が与えてくれるのを待つのではありません。むしろ祝福された土地に私たちのほうから進んで身を置くようにと聖書は教えます。しかも神の約束を握りながらウキウキわくわくして自分自身を立たせるべきなのです。

 もし私たちがただ神の約束に期待するだけで、ウキウキわくわくすることも進むこともしないでいると、心が「しなえる」結果になります。ヨシュア記2章11節には、イスラエル民族の敵がイスラエルの神の噂を聞い「心がしなえた」と書いてあります。この「しなえる」という原語には先ほどの「コーム(立つ)」という言葉に否定語の「ロー(〜ない)」が合わさった「ロー・コーム」というヘブライ語が使われています。つまりイスラエルの敵は、ただ噂を聞いてしまったために活き活きした行動を以って立ち上がることをしなかった結果、心が「しなえた」のです。

 同じように私たちの祝福も、神の約束を握るだけでただ待つのではなく、その約束に心躍らされ自分自身を活き活きと奮い立たせて進む必要があります。イエス・キリストも祈りについて次のように述べています(マルコ11章24節):

だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。


 自分が願うその願いが、神によって目の前に実現した時、人は誰もが喜びに満たされます。しかしキリストは、そのことが成就した時に受け取って感謝をするのではなく、祈ったときにもう叶えられたと信じて受け取りなさいと教えます。すなわち、これから受け取ることをすでに受け取ったものとして喜び、ウキウキわくわくしなさいと教えているのです。

 祈りは神との交わりです。私たちの人生に数々の願いや願望が現れてくるのは健全なことです。それは神が与えた思いであって、その願いを通して神は、私たちが神と交わることを望んでおられるのです。そしてこの神とつながるための唯一の道はイエス・キリストです。

 あなたもこの神との交わりの中で望みを叶えられ、神の栄光の内を歩んでください。

 あなたがキリスト者なら、今日も全てのあなたの思いを神に捧げましょう。そして主との交わりの中で自分を活き活きと奮い立たせ、進んで祝福へと自分を向かわせましょう。主は必ずあなたのために戦ってくださいます。

 あなたが未だこの方との関係を築いていないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方はあなたを受け入れ愛で満たし、あなたとの交わりの中で神の国の栄光を見せてくれるでしょう。

 今日もこのブログを訪れてくださり有難う御座います。

 皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの栄光と誉れが豊かに輝きますように。


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2009年10月16日

聖書の寸鉄44「過去に縛られるか未来に生きるか」

 世の中では経験が豊かな人がもてはやされます。経験は無いより有る方がいいでしょう。どんな職場でも経験をつんだ人はテキパキと仕事をこなすことが出来ます。そして世の人は経験からものを言うことが多いです。しかしよく考えてみると、経験からものを言うという行為は、過去から現在を見る行為とも言えるのではないでしょうか。

 聖書は常に信仰を強調します。信仰的な態度とは、過去の経験からものを言う態度とは視点が違います。信仰的な態度とは、神の言葉である聖書が何と言っているかを基準にする態度です。

 経験を頼りにする人は、過去の自分に知らず知らずの内に行動の規制をかけられています。過去のうまく行った例を用いることは大切ですが、それが全てであるならその人は過去の自分以上には自分に期待をしなくなるでしょう。

 聖書の言葉を頼りにする人は、期待できないときにも望みを抱くことが出来ます。何も無い所から全世界を創られた神の言葉を信じる人は、自分の弱さや不甲斐無さを嘆くよりも、神の偉大な力に期待を持つことが出来ます。聖書は私たちに対して、次のような励ましの言葉を伝えています:

 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(第一ヨハネ5章14節15節)

 私は、私を強くしてくださる方(神)によって、どんなことでもできるのです(ピリピ書4章13節)。

 私たちすべてのために、ご自分の御子(イエス・キリスト)をさえ惜しまずに死に渡された方(神)が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう(ローマ8章32節)。


 聖書の言葉は、この世の経験では得られない希望に満ちあふれています。その理由は、聖書が神の言葉であり、神が愛と希望といのちそのものであるからです。

 聖書的な態度とは、経験からものを言う態度と違い、未来を見つめた態度です。この態度は過去や現在の自分に縛られること無く、神の言葉を信じる態度です。神の言葉を信じる信仰には、過去の経験は関係ありません。それよりもむしろ、信仰的な態度で歩む人には経験が後からついて来ることになります。

 あなたは過去を頼りに生きますか、それとも未来を信じて生きますか
 
 今こそ私たちは、聖書的な視点で世の中を見つめるべき時です。あなたもイエス・キリストを信じ受け入れ、信仰的な歩みを歩んでください。

 あなたがキリスト者なら、神の言葉と聖霊なる神との交わりをますます深めましょう。この神が私たちの希望であり、私たちの未来そのものです。

 あなたがまだこの方を受け入れていないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方とともに、あなたも未来を見つめて希望の中を生きていきましょう。

 今日もこのブログを訪れてくださり有難う御座います。

 皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの希望と未来が大いに輝きますように。



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posted by モトイ at 14:48| 千葉 ☀| Comment(0) | 聖書の寸鉄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月12日

聖書の寸鉄43「喜べない時に喜ぶには?」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんの上に、神の祝福が豊かにありますように。

 聖書には喜ぶことが神の命令として書かれています。しかし世の中には喜べることばかりではありません。あなたはひょっとしたら、喜びとは自分の外にあると思っているのかもしれません。しかし聖書の教える喜びは、人の内側にあるものです。

 人は本来、神とつながって生きるように造られています。しかし人は罪のゆえに神が見えなくなりました。現代人は神と離れて生きているゆえに、神から受ける良い物を受けずに罪の中でもがきながら生きています。人は罪を犯して神から離れて以来、喜びも自分の外で探すようになったのです。

 本来の人の喜びとは、神そのものでした。ネヘミヤ記の8章10節には、神を喜ぶことが私たちの力であると教えています。神を喜ぶ者は神との交わりがあります。そして神との交わりはその人に力となります。なぜなら、神こそ力であり、喜びであるからです。そして聖書はさらに神は愛であると教えます(第一ヨハネ5章16節)。

 人が本来受けていた神から来る良い物とは、喜びであり、力であり、愛でした。それらの良い物はすなわち、神ご自身でした。私たち現代人は神から離れたゆえに危険な状態にあります。

 もしあなたが喜びを外の世界に探すなら、一時的には喜べても次から次へと喜ぶべき物を探し続けなければなりません。それは薬物中毒のような物です。あなたにとっての喜べる物は、その時その時で違います。なぜなら、あなたがその時その時で違うからです。それゆえに聖書は喜びを外に探すのではなく、喜ぶことを命令として教えているのです。では喜べないときに、人はどのようにして喜ぶことができるのでしょうか。その答えは、イエス・キリストにあります。

 人がイエス・キリストを受け入れたとき、その人は永遠に変わることの無い愛と力と喜びを内側に宿すことになります。なぜならキリストは永遠に変わらない方であり、キリスト者とはそのイエスの御霊を宿す神の神殿であるからです(ヘブル13章8節&第一コリント3章16節)。

 ピリピ書3章1節は、神にあって喜ぶことは私たちの安全であると述べています。人が自分の外に喜びを探すことは永遠には続けることが出来ないでしょう。しかし神は愛であり、喜びであり、力です。この方を受け入れ、この方の神殿となり、この方と交わる時、あなたは安全に導かれ、愛と喜びと力をみなぎらせることが出来ます。

 あなたもこの方とつながるために、イエス・キリストを受け入れてください。

 あなたがキリスト者なら、今日もこの方と交わりを保ちましょう。この方こそあなたの愛であり喜びであり力である方です。

 あなたがまだこの方を受け入れていないのなら、今すぐにイエスキリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方を受け入れることによって、あなたも愛と喜びと力を受けてください。



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2009年10月08日

聖書の寸鉄42「自分をしっかりと握るためには?」

 皆さんは何かに忙しくって我を忘れることがあるでしょうか。「忙殺される」と言う言葉は、あまりにも忙しくって死ぬほどであることを意味します。そんな時は我を忘れています。「忙しい」と言う字も、「心」を「亡くす」という意味がこめられています。しかし聖書はそんなときにこそ「自分をしっかりとつかむ」ことを教えています。

 新約聖書の時代のエペソの教会は当時最大の教会でした。そこで牧師をしていたテモテという青年は、とても熱心に人々を教え、キリストを伝えていたようです。そんな忙しさの中にあるテモテに、使徒パウロは「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい」と手紙でアドバイスしました(第一テモテ4章16節)。

 この「気をつける」という言葉はギリシャ語の原文では「エペコー」という単語が使われています。この単語は「しっかりと握る」とか「じっと見る」という意味があります。

 使徒パウロは教会の人々を教えることに熱心なあまりに忙殺されているテモテに対して、「しっかりと自分を掴みなさい」と教えているのです。

 聖書の教えはさらに、人が本来の自分の姿を取り戻すためには、神に立ち返ることが必要であることを明らかにしています。

 人があまりにも忙しすぎれば、自分の心が滅んだような状態になってしまいます。しかしそれもすべて、人が神から離れ、罪の苦しみを背負って生きていることに由来します。本来の人の姿は、神を愛し神に愛される姿です。そのような神との交わりが第一にある人は、忙しい中でまず神との交わりをしっかり握り締め、神をじっと見ます。そのとき神は、私たちの中にある本来の私たちの理想の状態をしっかりと握り、保ってくださいます。これが使徒パウロがテモテに教えた「しっかりと自分を掴め」というアドバイスの意味です。

 新約聖書のヤコブ書は、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます」と教えます。あなたがもし、忙しさの中で自分を見失っていることに気付いたのなら、本来のあなたの姿を取り戻すためにまず神をじっと見、手で握ってみてください。神は必ずあなたを握り、あなたの本来の姿を取り戻してくださいます。

 あなたがキリスト者なら、まず神の前に出ることの特権を行使し、常に神とつながりましょう。この方こそ私たちの砦、私たちの助けです。

 あなたがまだこの方を知らないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。本来のあなたの輝きを取り戻すために、あなたも神に立ち返った歩みをしてください。

 今日もこのブログを訪れてくださり有難う御座います。

 皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの恵みと祝福が大いに降り注ぎますように。



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2009年09月29日

聖書の寸鉄41「神に信仰がある?」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんの上に、神の豊かな祝福が臨みますように。

 神に信仰があると言えば、皆さんはどう思われるでしょうか。神は信仰の対象であって、信じられる側です。人間にこそ信仰が必要なのは誰にでもわかることです。しかしイエス・キリストは、信仰について弟子たちに教えた時に、開口一番に「神の信仰を持ちなさい」と言いました。

 日本語の訳も、英語の訳もこの聖書箇所を、「神を信じなさい」と訳しています(マルコ11章22節)。しかし原文のギリシャ語を直訳すると、「神の信仰を持ちなさい」と訳される箇所です。つまり、神には信仰があることになります。

 では神の持つ信仰とはどういうものでしょうか。もちろん唯一の神が別の神々を信じる訳はありません。では何でしょうか。

 神の信仰とは、何も無い所から全世界を創造してしまう力です。新約聖書のヘブル人への手紙には、信仰についてこう定義しています(11章1節):

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。


神は何も無い所から天と地を造られ、月や星、太陽を造られ、動植物や人間を造られました。この力は神の信仰によります。そしてイエス・キリストは、信仰について弟子たちに教えられた時に、何も無い所からすべてを造り出した神の信仰を持ちなさいと教えたのです。

人は何かにつけて信仰を持っています。自分を信じたり、他人を信じたり、会社や組織、そしてお金などの生きていない物まで信じたりします。人は何かを信じないと心が不安になるようです。しかしそれらの全ては、本来信じるに足るものではありません。

本当に信じてよいのは、唯一絶対の神だけです。人はこの方によって、この方を信じるように造られているのです。

この方の信仰は何も無い所からすべてを造り出す信仰です。そして人は、この方につながり、この方の信仰を受け取り、この方に信仰をささげるように出来ています。

あなたもこの方とつながることによって、人生を豊かに生きることが出来るのです。

この方につながった時の、あなたが持つべき信仰とは、目の前の事実に心を脅かされず、可能性が見えないときでも神を信じて前進し、目的を達成する信仰です。

あなたもイエス・キリストによって、この信仰を受け取ってください。

あなたがキリスト者なら、今日の全ての瞬間を、この方との交わりの中で過ごしましょう。この方から来る全ての良き物を受け取り、豊かな人生を歩みましょう。

あなたがまだこの方を知らないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。神とつながることで本来のあなたの姿を取り戻してください。


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2009年09月28日

聖書の寸鉄40「神の力が心に溢れるために」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんの上に、神の祝福が豊かに降り注ぎますように。

 神と和解した人に対して神は、聖書に数多くの約束を記しています。新約聖書の次の聖句も、そんな神の約束の一つです(ピリピ4章6節7節):

 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。


 この聖句の「守る」と訳されているギリシャ語「フュロウレオー」は、軍事用語で警護するとか監視すると言う意味です。

 私たち人間は、世の中で生きている以上、多くのことで思い煩いがちです。しかし聖書の約束は、神を受け入れた者の祈りを神が聞いてくれるばかりか、その心に悪いものが襲ってこないように神の平安が守ってくれると言うのです。この平安はイエス・キリストにあって神の民の心を警護し、監視し、守ります。その時その人は、神の平安に満たされ自分が敵のいる危険地帯を歩んでいることさえ思い出さないでしょう。そのための秘訣は、「感謝をもってささげる祈りと願い」です。

 感謝をもって祈りや願いをささげるということは、現状に対するいかなる不都合にも神の計画を信じるということです。聖書は天にも地にも神は満ちていると教えます(エレミヤ23章24節)。神が知らずに私たちの身に降りかかった災いなど一つも有りません。しかし私たちは災いに注目してしまうあまりに、心が動揺します。そんな時には全知全能の神に心をあわせる必要があります。そして全能者である神の主権を信頼し、現状を感謝するのです。

 人は感謝できない時があります。そんな時は不平不満や批判が口から出るものです。しかしそれらの口の言葉は、それにふさわしい結果を招いてしまいます。賢人ソロモン王が言うように、人はその口の結ぶ実によって収穫を得るのです(箴言18章20節)。

 古代イスラエルの民族が、エジプトの奴隷状態から脱出してきた時も不平不満が口から出ました。彼らの前には紅海があり、後ろからはエジプト軍が彼らを追ってきました。絶体絶命の危機に、彼らは口から出る不満をリーダーであるモーセにぶつけました。

 彼らは、「なぜ私たちをこんな所に連れてきたのだ。エジプトには墓がないとでもいうのか。私たちはあなたに、私たちにはかまわないでくれと言ったではないか。」と言いました。皮肉と自己正当化と責任転嫁に満ちた言葉です。彼らの言葉は何一つ正しくありません。そんな時、リーダーであるモーセは、「神があなた方のために戦われる。あなた方は黙っていなければならない」と言いました(出エジプト記14章)。

 感謝ができない時、不平不満が出る時、それを抑えて口から出さないことは、災いから私たちを守る時の秘訣のようです。イザヤ書30章15節は次のように教えます:

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。


 災いが降りかかる時、人は感謝が出来ないどころか心を騒がせてしまいます。そんなときの不平不満は自己正当化や責任転嫁が多く、その立ち騒ぐ心はさらに災いを招きます。そんな時はモーセが言うように、とにかく黙ることです。

 黙ればとにかく静かに出来ます。そのとき神に立ち返れば、私たちは救われ、落ち着くことが出来ます。落ち着いたらさらに神に信頼できます。その信頼は感謝につながり、私たちは力を受けることが出来ます。神に立ち返ることはすなわち祈りです。

あなたが感謝できない時、不平不満が口から出そうなとき、モーセの言うように黙って静かにするのは賢いことです。神に信頼するあなたを神は捨てて置きません。モーセとイスラエルの民の前で神が奇跡を行い、紅海を真っ二つに分けたように、あなたの人生の危機にも神はあなたを助けるでしょう。

 あなたはすでにこの神と和解をしていますか。イエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神とつながった日々を過ごしてください。

 あなたがキリスト者なら、今日も神に感謝して祈りましょう。この感謝ができないときはとにかく黙って静かにし、神につながりましょう。神があなたを救い、力づけ、平安を与えます。

 あなたがまだこの方を受け入れていないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。全てを神にゆだねることが出来ることは、神の民の特権です。あなたもこの特権を受け取ってください。

 神と人の本当の関係.WAV

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2009年09月18日

聖書の寸鉄39「武器だけでは勝てない戦い」

 聖書の言葉は最近ではクリスチャンの専売特許ではないようです。ビジネス書や自己啓発書でもよく取り上げられています。それだけ神の言葉である聖書の素晴しさが、世間で認められていると言うことなのでしょう。それはクリスチャンである私にとっても、とても喜ばしいことです。しかし、聖書の言葉は単なる知恵の言葉や霊的世界の法則を示す言葉ではありません。

聖書の言葉について説明してある次の聖句は、聖書の言葉の用い方に対する決定的に不可欠な要素を説明しています。

第二コリント10章4節は以下のように述べます:

 私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神の御前で要塞をも破るほどに力のあるものです。


この聖句で「戦い」と訳されている言葉は、新約聖書の原語であるギリシャ語の単語では「ストラテイアス」という言葉です。この言葉は英語の「ストラテジー(strategy)=戦略」の語源になった言葉です。

聖書の言葉は確かに単なるこの世の知恵ではなく、霊的精神的な法則を示したり、人間関係の微妙なルールさえも教えたりします。その意味では確かに神が人類に与えた偉大な「武器」であると言えるでしょう。しかしこの武器には使い方、すなわち戦略が必要なのです。

よくビジネスの世界でも用いられる聖書の知恵に、成功のゴールデンルールと言うのがあります。具体的に言えば、「人にしてもらいたいことを自分も人に施せ」と言う、マタイ7章12節の言葉です。

この言葉は聖書の知識の余り無い日本人のビジネスマンの間にさえ広まっている、成功のゴールデンルールです。確かにこのように人に施せば、霊的な法則として自分に祝福が返って来ます。これは霊的世界のルールであり、成功の鍵であると言えます。このことを示している聖書の言葉はまさしく、神の知恵であり、私たちに与えられた武器です。

しかし最新鋭の武器で装った軍隊が戦争に負ける例はいくらでもあります。最近ではアメリカ軍がイラクやアフガニスタンで武器の劣るゲリラに手こずっています。ベトナム戦争でも彼らは武器では勝っていましたが負けてしまいました。

神の言葉を用いる人々もこのようになり得ます。要塞を破るほどの霊的な力を帯びた神の言葉でさえ、用い方によっては私たちをいのちの危険にさえさらす敗北を招いてしまいます。聖書の言葉を用いるためには戦略が必要なのです。

この戦略は神から来ます。ピリピ書2章13節は次のようにそのことを説明します:

神は、御心のままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。


戦略は神から来ます。神の言葉を正しく用いるためには、まず神とつながる必要があります。

もちろん神とつながらない人々も、聖書の言葉によって励まされたり、導きを受けたりします。聖書は神の知恵を示した言葉です。それゆえその知恵は普遍的な真理です。しかしこの言葉を本当に有効に用いるためには、常に神とつながり、神によって導き(戦略)を受ける必要があるのです。

あなたもイエス・キリストを信じることによって神とつながり、神から導きを受けて、この聖書の言葉を用いてください。

あなたがキリスト者なら、あなたの特権である神とのつながりをさらに深め、この方から導きを受けて御言葉を用いましょう。祈りによって神を礼拝し、聖書の言葉によって導きを受けましょう。

あなたがまだこの方を知らないのであれば、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方につながることだけがあなたを救い導きます。

今日もこのブログを訪れてくださり有り難うございます。

皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの栄光と誉れが大いに輝きますように。

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2009年09月07日

聖書の寸鉄38「あなたが似ていくもの」

 東京の門前仲町という場所で、せんべいを買ったことがあります。この町は富岡八幡宮の門前町として江戸時代から栄えた古い町です。その時私は、この代々続くせんべい屋の主人が奇妙な喋り方をしているのに気が付きました。客商売ですので笑顔なのですが、その顔がお面のように動かないのです。

この主人は固まった笑顔のまま唇を動かさずに、抑揚も無い声で話します。話すというよりも録音テープが、「はーい。いらしゃいませー。」などと決まりきったセリフを繰り返しているようでした。

私は見ていてぞっとしてしまいました。それは聖書に次のように警告されているからです。特に最後の節に注目してください(詩篇115篇2節〜8節):

(引用始め)
なにゆえ、もろもろの国民は言うのでしょう、「彼らの神はどこにいるのか」と。
われらの神は天にいらせられる。神はみこころにかなうすべての事を行われる。
彼らの偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。
それは口があっても語ることができない。目があっても見ることができない。
耳があっても聞くことができない。鼻があってもかぐことができない。
手があっても取ることができない。足があっても歩くことができない。また、のどから声を出すこともできない。
これを造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者になる。
(引用終わり)


 聖書は偶像を造る者もそれに信頼する者も、これと等しい者になると警告しています。門前仲町での経験で私は、この聖句が示すものが霊的内面的なことであると同時に、物理的外見的な意味も含まれているのだと感じました。

つまり神でないものを心の中心に据える人は誰でも、偶像のように物事に対する見極めが出来なくなり、無気力無感動となると同時に、実際に偶像のような面影になってしまうことも意味するのだと思います。

以前テレビで、ペットと飼い主がどれくらい似ているのかを競うコンテストの話題を見ました。その番組ではこのことを微笑ましい話題として扱っていました。優勝したペットと飼い主のペアは本当にそっくり似た犬と人間でした。

今から考えると、努力してペットに自分を似せていたので優勝できた半面、ペットが自分の心の中心に居座った神のような存在、すなわち偶像になってしまったので、霊的な現象として似てしまったという面もあるのかもしれません。

先の詩篇115編では、後半で神だけが信頼できる方であることが教えられています。私たち人間は、罪のゆえに神が分からなくなっています。それゆえに誰もが心の中心に空洞のようなものをもっています。この空洞は神でしか埋めることが出来ず、それ以外のものが入れば全て聖書の警告した偶像の役目を果たすことになります。

ある人はお金をこの空洞にいれ、自分自身がお金の価値判断で行動するようになります。またある人は異性の愛をこの空洞に入れ、自分自身を情欲そのものにしてしまいます。

どんなものでも神以外のもの、すなわち偶像がこの空洞に入れば、聖書の警告するごとくにその本人が偶像の影響を受けてしまいます。

あなたは今、心の中心に何を迎え入れていますか。

神を心の中心に据え神の清さ、賢さ、いつくしみ深さを手に入れるために、イエス・キリストを信じ受け入れてください。

あなたがキリスト者なら、いまこの瞬間に心の中心に神を迎え入れ、神との交わりを深めて歩みましょう。この交わりこそあなたを癒し導き、あなたを神の性質に変えて行きます。

あなたがまだこの方を心の中心に迎えていないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神と和解をすることを強くお勧めします。

今日もこのブログを訪れてくださり有り難うございます。

皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの恵みと哀れみが豊かに降り注ぎますように。

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posted by モトイ at 15:25| 千葉 ☁| Comment(0) | 聖書の寸鉄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

聖書の寸鉄37「人が身軽に生きるために」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんの上に、神の豊かな祝福が臨みますように。

 人は色々捨てられないものを心の中にもっているようです。たとえばプライドは、最も大きな捨てられないものの一つでしょう。旧約聖書の義人ヨブのようには、なかなか言えないようです。

ヨブ記1章21節で彼は、「私は裸で母の胎から出てきた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主(神)は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言っています。

ヨブは大金持ちでした。息子むすめもたくさん居り、家畜もたくさん持っていました。そして人々からも尊敬されていました。そんな彼が悪魔の企みにより数々の不幸な目に遭い、全財産と息子むすめを失います。先の言葉はその時に彼が語った言葉です。この言葉は彼の神に対する信仰の深さを表しています。これは同時に、私たちがこの世の中で生きるのに役立つ人生訓と言えます。

ヨブはこれ以後、更なる試練に見舞われます。しかし最後に神は彼を再び祝福します。試練の間、彼は神を罵ることなく、信仰の戦いの中で人々からの屈辱に耐えます。耐えられたのは、彼がもともとプライドも何も神に明け渡していたからでしょう。

人はみなプライドを持つものだと私は思います。誰も気にしていないのに、自分だけプライドに縛られたりもするようです。

あるとき街中で女性の浮浪者が座っていました。私が何気なく目を留めたその浮浪者の目の前に、通行人が吸っていないタバコを一本誤って落として通り過ぎて行きました。

私はきっとこの浮浪者はタバコを拾うだろうと思いました。なぜならタバコが落ちた瞬間、この浮浪者がそわそわしだしたからです。

ところが彼女はすぐにタバコを拾うことをしませんでした。誰かが見ていないかを警戒してそわそわしています。そして何気なくタバコまで歩み寄ってから、さっと拾って歩み去っていきました。

私は何も気にせずにすぐに彼女がタバコを拾うとものと思いました。しかし周りの眼を気にしながらタバコを拾ったその姿は、私自身が浮浪者を勝手なイメージで見ていたことに気付かせてくれました。

私のイメージしていた浮浪者は、都会の中でも他人の目を気にせずに生きる、雑草のような人々でした。ところが本当はそうではないのかも知れません。実は彼らは捨てられないものをたくさん背負って、人目を気にして生きている人々なのかもしれません。少なくとも彼女はそのような人のようでした。

その女性も色々な事情があって浮浪者になったのでしょう。私が見たタバコを拾うその姿は、浮浪者として生きることへの恥じらいを感じさせました。あるいは彼女の中にある捨て切れないそんなプライドが、彼女をそこまで落としたのかも知れません。

考えてみればそんなときに雑踏の目を気にせずに、堂々とタバコを拾って一服するような人は大物です。大金持ちの邱永漢氏は一円玉を拾うことのできない人は、金持ちにはなれないと断言しています。それは大金持ちの邱永漢さんだから言えることかも知れません。普通の人は、自分のプライドをを捨ててしまえば、何も残らなくなってしまうからです。

聖書の教えるアイデンティティーは、神とのつながりの中で始めて成立するものです。聖書は人は神によって造られたと教えます。その理由も、神が人を愛したかったからです。神と人とに愛される姿が本来の人間の姿なのです。

このアイデンティティーが無くなってしまった人間にとっては、自分自身こそが全ての守るべきものになってしまいます。義人ヨブはもともと神を愛していました。それゆえに全てを失っても、自分のアイデンティティーを失わずに神を信頼することが出来ました。

あなたは心のうちに、不必要なものをどのくらい溜め込んでいるでしょうか。

イエス・キリストを信じて神とつながり、あなたも人のあるべき本来の姿の中で身軽に生きてみてはいかがでしょうか。

あなたがキリスト者なら、あなたが神から受けた恵みにもう一度心を向けましょう。永遠の滅びから救われた人として、神とのつながりの中で身軽に生き、大胆に神の前に出ましょう。

あなたがまだこの方を受け入れていないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れ、あなたの本当のアイデンティティーを手に入れることを強くお勧めします。

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2009年09月01日

聖書の寸鉄36「人が同じことを繰り返す理由」

 ふと家の外を眺めて見ると、丸い石油缶のふちを尺取虫が這っていました。どこからやって来たのか分かりませんが、一生懸命缶の丸いふちを這っています。

動きがユーモラスなので、しばらく眺めていました。缶は丸いので、尺取虫はどこにもたどり着くことなく、ただ缶のふちをぐるぐると回っていました。微笑ましい姿でした。しかし、30分後にもう一度見ると、尺取虫はまだ石油缶のふちをぐるぐると回っていました。

見るからに一生懸命に同じ場所をぐるぐると回るその様子は、滑稽さよりもむしろ哀れな感じがしました。もちろん虫は私が何を感じようと単なる虫です。哀れも何も無く、ただ生きているだけでしょう。ところが人は尺取虫と違って感情も判断力もあるのに、この尺取虫のように全く同じようなことをぐるぐるとしてしまっています。

特に私たちは、考えることにおいてこの尺取虫のようです。同じことをぐるぐると思い巡らし、どこにもたどり着けない思考の旅をしてしまいがちです。このような当てども無い思いは、どこかで断ち切らなければなりません。

イエス・キリストは人々の心を見抜くことが出来ました。あるときイエスに反感を持つ人々に対して、「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか」と指摘したことがあります(マタイ9章4節)。

ある英語訳聖書では、この時イエスの語った「考えている」と言う言葉を、エンターテイン(entertain)と言う言葉で表現しています。映画やお芝居などをエンターテイメントと言います。人々を楽しませる人をエンターテナーと言います。つまり悪いことを楽しんでいると言う意味です。

人は悪い考えでも良い考えでも、ぐるぐるともてあそんで楽しむ傾向があるようです。

イエスは「人の口は、心に満ちることを話す」と言いました(ルカ6章45節)。またソロモン王の箴言にも、「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」とあります(箴言18章20節21節)。

私たちの心の考えも口の言葉も、私たちの周りの状況に影響します。

悪い考えを思い巡らしていると、悪いことが起こります。そして通常悪い考えは、どこにも行き着くことが無く、ただ同じパターンで人を責めたり、自分を責めたりします。

反対に良いことを考えると、良いことが起こります。そして良いことが起きた時に、通常人は良いことを繰り返して考えます。同じパターンでよいことを考えますが、ぐるぐると石油缶のふちを回る尺取虫のようにでは無く、螺旋階段を上るようにあなたのことを引き上げます。

人は知らず知らずの内に考えをめぐらします。そして考えていることが私たちの周りに引き寄せられていきます。それゆえに私たちは、自分の思考パターンを点検する必要があります。

ところが聖書は、人の心はいつも悪いことに傾くと教えています(創世記6章5節)。それは人が神から離れてしまった罪によります。

自己啓発書や潜在能力開発講座では、心に良い思いを常に思い巡らせるように教えます。時には聖書の言葉を用いてさえ、その必要性を説きます。しかし、そもそも人は良いことを考えないようになってしまったのです。

私たちが悪いことを思い巡らすことをストップするためには、神の力が必要です。神は愛です。人はこの神と和解することにより、愛を心に満ち足らせ、変わっていくことが出来るのです。

あなたが神とつながることを神は求めています。人は神無しでは滅びに向かうのみです。

イエス・キリストを心に迎え入れることによってのみ、あなたは神と和解することが出来ます。

あなたがキリスト者なら、今日も神の約束を握り締め神の前に大胆に出ましょう。この方との交わりのみがあなたを変えることが出来ます。

あなたがまだこの方と和解をしていないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れ、滅びの堂々巡りから抜け出すことを強くお勧めします。

今日もこのブログを訪れてくださり有り難うございます。

皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの愛と恵みが豊かに降り注ぎますように。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html







posted by モトイ at 14:27| 千葉 ☁| Comment(5) | 聖書の寸鉄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月18日

聖書の寸鉄35「思い煩いをリセットする方法」

お早うございます。
モトイです。

今日、皆さんの上に神の祝福が豊かに降り注ぎますように。

 動物と人との違いは色々あると思いますが、そのひとつは永遠の世界に対する思いであると思います。人は動物と違い、自分が生まれてくる前のことや、死んだ後のことも考えます。また、夜空を眺めて永遠にたどり着けないその果ての宇宙のことまで考えたりします。そのような永遠の世界に憧れる思いは、神が人に与えたものだと聖書は言います。伝道者の書3章11節は次のように教えます:

(引用始め)
 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
(引用終わり)


 この短い聖句の中には、私たちが抱える思い煩いから解放される秘訣があります。悠久の時間に対する思いや、永遠の空間に対する憧れは神が与えたものです。私たちはこの神が与えた思いによって永遠の世界に近づくことができます。

ところが私たちは自分の目の前の一瞬のことに夢中になりがちです。ひとつの思い煩いがあると、同じことをぐるぐると何度も考えたり、考える必要のない自体まで想像して頭の中で疑似体験してしまいます。

精神医学の研究では、ほとんどの思い煩いが実際は起こらない事態を想像して悩んでしまうことが分かっているそうです。人はひとつのことしか考えることができません。もし私たちが自分で思い煩いの堂々巡りに捕らわれていると気付いたなら、心を永遠の世界に向け、神が人に与えたプレゼントを楽しんでみてはいかがでしょうか。

空を眺めて雲の行きかうのを見ても良いでしょう。さらにその先の宇宙に心を向けて、自分が広大な銀河の中の太陽系第三惑星、地球に生まれた奇跡に思いを馳せるのも良いでしょう。

とにかく行き詰ったら永遠の世界に思いを馳せてみましょう。あなたの心はその一瞬でリセットされ、次なる力を湧き立たせるでしょう。

しかしそれよりももっと大きなものに思いを馳せることは、あなたの心に最大の力を湧き立たせます。それは、広大な宇宙や悠久に流れる時間と、あなたそのものをお創りになった神に自分の心を明け渡すことです。

あなたがもし自分の心をこの神に明け渡すのなら、全世界を創られた全知全能の神があなたの内側に住まわれます。言うなれば、広大な宇宙や悠久の時間を創られた、宇宙よりも大きな神があなたの肉体に入り込むのです。

これはもはや奇跡です。しかし私たち人間は、この奇跡を味わうようにと神によって招かれているのです。

あなたもイエス・キリストを信じ受け入れこの奇跡を味わってください。

あなたがキリスト者なら、今日も広大で悠久なもの全てを支配される偉大な神に心を明け渡しましょう。あなたのうちに神が宿るその奇跡をかみ締め、聖霊との交わりにより歩んで行きましょう。

あなたがまだこの神を受け入れていないのなら、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神との交わりの内に入ることを強くお勧めします。神を思う心はあなたに対する神からのプレゼントです。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html







posted by モトイ at 05:00| 千葉 ☀| Comment(3) | 聖書の寸鉄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月13日

聖書の寸鉄34「努力よりも自己イメージがあなたを変える」

お早うございます。
モトイです。

今日皆さんの上に、神の豊かな祝福が降り注ぎますように。

 自分のイメージが否定的なために、誉められた30分ごに自宅のソファーを燃やした少年が居たそうです。彼はアメリカのある有名なコーチング講師の養子でした。

その子が火をつけて騒ぎを起こした後に、なぜこのようなことをしたのかと聞くと、本心から「分からない」と答えたとそうです。

彼は本当の両親から虐待されながら育つ中で、自分自身の否定的なイメージを潜在意識に確立してしまっていました。その自分のイメージとは、親に嫌われ常に罵られているというイメージです。それゆえに自分が養父から誉められると違和感を感じ、わざわざ叱られ嫌われるような自分を演じてしまったのだそうです。

私たちの心には大なり小なりこのような否定的な自己イメージがあるのではないでしょうか。言うなれば私たちは、過去の自分に影響を受けながら毎日を過ごしているようです。

脳機能学者の苫米地英人氏は自己実現の本を多数書いています。その中で一貫して彼が言っていることは、努力をして自分を変えるのではなく、自分のイメージを変えることによって行動を変える、ということです。

人は努力して自分を変えようとします。特に日本人は努力を美徳と考えています。努力は確かに素晴しいことです。しかし今の自分を否定して自分を変えることよりも、自分の良いイメージを心に抱いて行動を変えるほうが効果があるようです。

自己実現の本ではここで、自分が成功者になりたいのなら成功したイメージを具体的に持て、などと言います。しかし、聖書が人に与える自己イメージはそれ以上の力があります。

聖書は私たち人間が神の似姿に造られたと言います。そして神は私たちを、御子イエスの命と引き換えにするほど愛してくださったと教えます。

そればかりかキリストを信じる者はキリストと同じ姿になり、キリストの香りを放ち、キリストが友と呼んで下さり、さらに神がその人に味方すると教えます。これは私たち人間が持ち得る最高の自己イメージです。

新約聖書のローマ人への手紙8章31節32節は次のように教えます:

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。


あなたはこのような自己イメージを持つようにと、神によって招かれています。

あなたを変えるのはあなたの努力ではありません。あなたの味方となる神との交わりがあなたを変えるのです。

 あなたがキリスト者なら、神が下さったあなたの自己イメージをしっかりと握り、今日も神と深い交わりを持ちましょう。

あなたがまだこの方と和解をしていないのなら、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神のもとに帰りましょう。

人を変えるのは人の努力ではなく、その人のうちにある自己イメージです。人の本来の姿、神の似姿である自分を思い出すために、あなたも今日、イエス・キリストとともに歩みましょう。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html







posted by モトイ at 05:00| 千葉 ☁| Comment(0) | 聖書の寸鉄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月10日

聖書の寸鉄33「二種類の導き」

お早うございます。
モトイです。

今日皆さんの上に、神の大いなる祝福が降り注ぎますように。

 テレビのワイドショーやニュースにはたくさんの話題が上りますが、それらのほとんどはあまり良くない話題のようです。人々はネガティブな話題を好んで見たがるようですが、聖書は次のように語ります:

すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(新約聖書ピリピ4章8節)


ある自己啓発の本に面白い実験が書いてありました。実験というよりもゲームのようなものです。

ある人に実験の場所となる部屋に入ってあること(ミッション)を達成してもらいます。しかしそのミッションはあらかじめ知らされていません。それは部屋に入ってから音によって誘導されることになっています。その音はその部屋にいる数名の人々によって発せられます。

この音は2種類ありますが、ひとりの被験者に対して1種類の音しか出しません。ひとつの音は、被験者が正しいこと、そのミッションを達成するのに良いと思われることをしたときに発せられる拍手の音です。そしてもうひとつは、被験者が間違ったこと、そのミッションを達成することから遠ざかった時に発せられるブザー音です。

この実験によって分かったのは、人は拍手によって誉められながら導かれたほうが、ブザーによって叱られながら導かれるよりも断然目的を達成しやすかったことです。

ミッションの内容は、冷蔵庫の中のケーキを食べる、というようなことです。拍手によって導かれる場合、冷蔵庫に近くなれば拍手をします。遠ざかれば拍手はやみます。そこで被験者は冷蔵庫に何かがあると気が付きます。そして冷蔵庫に手を触れるとさらに拍手があり、あけるとケーキがあります。そのケーキを手にするとさらに拍手され、ついに一口食べてミッション完了というわけです。

ところがブザーによる導きの場合は、何をしてもブザーがなってしまいます。被験者はブザーのならない方向に歩もうとします。しかしこの場合、意思決定はブザーの鳴らないことを探す消去法的やり方になります。何をやってもブザーが鳴ってしまうため、そのうちにほとんどの被験者は一歩も動けなくなってしまうそうです。

なんだかこのブザーの音こそ現代社会が私たちにしているやり方のように思えます。

このような社会にいる私たちは、他人に対しても自分自身に対しても否定的な見方をしがちです。そして私たちの意思決定も消去法的なものになりがちです。こんな社会だからこそニュースやワイドショーが暗い話題を取り扱うのだと思います。

しかし聖書が勧めるのは拍手で導く視点です。私たちが心に留めるべきなのは、真実なこと、誉あること、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと、徳と呼ばれること、賞賛に値することです。この視点が私たちを目標に到達させます。

そしてこの視点は、神とつながることによってのみ可能です。なぜなら、神こそこのような良いもので満ち溢れた方だからです。

 世の中はあなたを否定的な枠に閉じ込めようとします。この枠の中では人々はやる気をなくしてしまいます。神はあなたをこのような社会に在って神の良いもので満ち溢れて歩ませたいと願っています。

あなたもこの招きを受け取ってください。

あなたがキリスト者なら、今日も主イエスにつかまって神のよいもので満たされて歩みましょう。この方だけがあなたの正しい導き手です。

あなたがまだこの方と和解をしていないのなら、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神との交わりの内を歩んで下さい。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html







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