2011年02月11日

聖書の神22「永遠に深まり続ける神の愛」

 哲学者が良く使う例で「世界誕生数秒前仮説」と言うのがあるそうです。竹内薫氏によるとこの仮説は、世界は実は数秒前に誕生し、私たちの頭には巧妙な偽情報が仕込まれているので、あたかも長い間生きていると思い込んでいる、とする仮説です。そしてこの仮説を論理的に否定する証拠はないのだそうです(「99.9%は仮説」p.177)。

同書は他にも飛行機が飛ぶ理由や麻酔薬が効くメカニズムなども、間違いのない理論で説明できないのだと述べています。私たちの周りには否定できなくても可笑しな理論や、理論的に説明出来なくても当たり前のように利用しているものがたくさんあるようです。

そんなに難しいことではなくとも、私たち日本人誰もが知っているのに説明出来ない物もあります。日本人の国民食ともいえるカレーライスの味です。恐らくカレーライスが嫌いな日本人は居ないでしょう。みんな大好きのカレーライスですが、あなたはその味を知らない人にカレーを説明出来ますか?

カレーの味といえば、スパイシーで香ばしく、ご飯との相性が良くって…などなど色々説明が出来ますが、言葉だけでは全く伝わらないでしょう。やはりカレーの味は食べて見ないと分りません。

神との関係もこれと全く同じです。神についてどんなに多くの説明を受けても、自分で神を知り神を味わってみなければ本当に神が分ることはありません。

聖書は自己啓発書なども引用するような、すばらしい励ましの言葉で満ちています。しかし神を信じて読むのと、そうでなくて読むのではその味わいが全く違います。

神は永遠に無限の方です。しかし聖書に印刷された文字は神との関係なしではただそれ切りです。聖書は神との通信手段であって、神との関係がなければほとんどその役割を果たせません。神とつながる携帯電話を持っていても、神を信じる信仰という電流が携帯電話に流れなければそれは役目を果たせません。

神は愛だと言われてもこの神との交わりがなければ、「愛」の本当の意味が分らないでしょう。分ったと思う人があったとしても、その人は分ったと思っているだけです。カレーライスの説明を聞き、実物を見て、匂いまで嗅いでも、実際に食べてみなければその味は分りません。「愛」についてもその「愛」の出所である神を知らなければ、ただ愛の雰囲気を知っているだけです。

しかも神は、カレーライスと違い永遠に無限の方です。この方を知り尽くすことは永遠に無理なことです。神を知った者はその愛を知りますが、神についても愛についても知り尽くすことなど出来ないのです。知れば知るほど神の愛は深くなります。だからこの方との日々の交わりが、私たちすべての人にいのちを与え続けるのです。

あなたはこの神についてどのくらい知っていますか?

イエス・キリストを信じ受け入れ、この方の永遠に無限な愛を受け取り続けてください。

あなたがキリスト者なら、今日という日にも神との交わりを深めましょう。祈り心を絶やすことなく、聖霊の火を燃やし続けましょう。

あなたがまだこの方を知らないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。頭で考えても分りません。近くで見て、匂いを嗅いだだけでも伝わりません。神を実際に味わい知って下さい。この方を知り続けるように私たち人間は造られているのです。






神と人の本当の関係.WAV




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2009年09月30日

聖書の神21「弱さを理解してくれる神」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんの上に、神の豊かな祝福が降り注ぎますように。

 ヨハネの福音書11章35節には、「イエスは涙を流された」と書いてあります。これは、イエスと仲の良かった者の一人が死んで墓に葬られた時の、イエスの心情を表しています。

 彼は二人の姉を持つ弟で、三人ともイエスととても親しい間にありました。ラザロと言う名のこの弟は病気で、姉妹たちはイエスが来て癒してくれるのを待っていました。しかしその甲斐も無くラザロは死に、墓に治められ四日が経ちました。そこにイエスが現れたのです。

 神であるイエスはこれから自分のすることを知っていました。ラザロをよみがえらせ、神の栄光を表そうとしていたのです。しかし人々はただ泣くばかりでした。人として世に来た神の御子イエスは、このとき人の悲しみを感じられ「涙をながされた」のです。ヘブル人への手紙4章15節には以下のようにあります:

 私たちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。


 イエスがただの超人や偉大な超能力者なら、人々の嘆くのを見て「何を嘆いているのだ、私が彼を生き返らせてあげよう」などと言って人々を励ましたかもしれません。しかしイエスはラザロを生き返らせる前に、人々の心を感じ取られ涙を流されたのです。ここにイエスが、"完全なる人間として世に来た完全なる神"と言われる所以があります。世の救い主である神は、完全に人の思いを実感することが出来るのです。

 よく誤解されるイエスの誤ったイメージは、イエスが女性的で詩人のような賢人であった、というものです。しかし実際のイエスは石大工で、筋骨隆々の偉丈夫でした。新約聖書から解るイエスの移動距離を、彼の活動期である3年半で割ると、彼の活動期間のほとんどが歩くために費やされていたことになります。それもかなり速いスピードでです。そんな屈強な肉体を持っていた偉丈夫イエスが、ラザロの墓の前で嘆く人々に同情し涙を流されたのです。

 英語圏の人々は「イエスは涙を流された」という聖句を、聖書の中で最も短い聖句と親しみを込めて呼びます。Jesus weptと英語で訳されるこの聖句は、全知全能であるはずの救い主である神イエス・キリストが、私たち人間のために涙を流して私たちの悲しみを感じてくださることを表しています。

 先ほどのヘブル人への手紙4章15節には、イエスは人の弱さを感じて同情してくださる方であることを私たちに教えます。そしてその次の16節は以下のように私たち全ての人間を励まします:

 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。


 全ての人は罪を犯したので神の栄光から離れてしまっています。そして人は神の助けを受けられずに、自分の弱さの中で苦しんでいます。しかし罪の中でもがき苦しむ人間に対し、神は愛と哀れみを以って同情してくださるのです。

 人が神と和解をしたとき、たとえ自分の弱さのゆえに罪の中で打ちひしがれたとしても、神はその弱さを同情し、折にかなった助けを必ず下さいます。あなたが人から諦められたり、自分自身で自分を諦めてしまったとしても、神はあなたを絶対に諦めません。

 あなたもこの神と和解をし、大胆に恵みのみ座に近づく日々を送ってください。

 あなたがキリスト者なら、今日もキリスト者に与えられた特権を行使し、自分の思いを大胆に神にささげましょう。この方とつながることが、私たちを励まし、癒し、愛によって満たします。

 あなたがまだこの方と和解をしていないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。あなたの弱さを解決できるのは神のみです。この方につながりましょう。



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2009年09月04日

聖書の神20「感動する神」

 旧約聖書の創世記の1章から3章には、神の天地創造の物語があります。1章には神が人間を含めた全てのものを創造した様子があります。有名な天地創造の六日間の様子です。

神は、被造物である植物や動物を造る際にあたかも指差し点呼をするように「よし」と確認しています。

光を造り「よし」とされ、海を造って「よし」とされ、植物を造り「よし」とされ、月や星、太陽を造り「よし」とされ、海の生き物を造り「よし」とされ、地の生き物を造って「よし」とされました。

最後に人間が登場します。この人間は有名なアダムとイブ(エバ)です。彼らは神の似姿に造られ、特別な祝福の言葉をもらいます。そして彼らに「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地を這う全ての生き物を支配せよ」と、最初の命令を出します。

神はそこで被造物の全ての様子を目にし、さらに人をその前に置いて感嘆しています。1章の最後の節には次のようにあります(31節):

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。


今まであたかも指差し点呼のごとく「よし」とされていた神は、人が被造物を管理すべくその上に存在しているのを見て、「見よ。それは非常によかった」と感動しています。

ヘブライ語の原文では「よし」も「よかった」も「トーブ」という単語が使われています。これは良いという意味のほかに、嬉しくなるとか楽しくなるという意味があります。

神が造った全てのものは神にとっては喜ばしいものです。海も空も森も山も、魚や鳥や動物たちも、すべて神の喜びとなる存在です。しかし人間はそれに輪をかけて、「非常に」神を喜ばせ楽しませる存在だったのです。

この後、人は罪を犯し神から離れてしまいます。地を神とともに支配するように造られた、地の管理者である人間は、神抜きで勝手に地上に君臨しています。その弊害は、動植物種の絶滅や、大気汚染、土壌汚染、海洋汚染と、数え上げたら枚挙に暇がありません。

人は地を勝手に支配するだけに留まらず、お互いの支配権を奪い合い殺しあっています。人の罪は複雑に絡み合い、まるで雪だるまのように大きく膨れ上がっています。地は人の罪により、暴虐により、被造物の全てにうめき声を上げさせています(ローマ8章22節)。これは人間本来の姿ではありません。

人は神の似姿であり、神と人とに愛されるべく存在しています。あなたも私も神の似姿に造られ、神に愛されるための存在です。私たちは罪を持ちますが、それでも神にとってはご自分の作品の中で「見よ。それは非常によかった」と感動する存在なのです。

この神は私たちを今も愛しています。なぜなら神は愛だからです。いずれ神がご自分に従わないものたちを、怒りをもって罰する時が必ず来ます。その怒りにあわないようにと、神は今も私たちに語っています。

イエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神との和解をしてください。

まだ時間があるうちに、神とつながり本来のあなたの姿を神から受け取ってください。

あなたがキリスト者なら、神の前に出ることの出来る特権を常に大胆に行使しましょう。あなたは神の最高傑作です。この作品に磨きをかけて下さるのは神です。神との交わりを深め、さらに神からよきものを受け取りましょう。

あなたがまだこの方と和解をしていないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。あなたの人生の残りの時間を素晴しい時にするために、時間のあるうちにこの方を知ってください。

今日もこのブログを訪れてくださり有り難うございます。

皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの祝福と恵みが大いに降り注ぎますように。








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2009年09月02日

聖書の神19「あなたを名前で呼ぶ神」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんの上に、神の祝福と恵みが豊かに降り注ぎますように。

 ラジオでイスラム圏に暮らしていた通訳の女性の話を聞きました。彼女は公衆トイレで不思議な光景を見たそうです。

その国の女性は、ブルカといって、体全体ばかりか目まで網で覆った服装をします。女性はほとんどこの格好なので、当然男性は見分けが付かないはずです。ところがトイレからでてくる自分の妻を、どの男性もいとも簡単に見分けます。不思議に思ってしばらく眺めていましたが、彼女にはどうやって男性が女性を見分けているのか分からなかったので、ある男性に聞いてみたそうです。

すると男性は、「自分の妻は私がプレゼントした靴をはいている」と答えたそうです。そこでよく見ると、歩く時に見え隠れする女性の足元は、みな少しずつ違っていたそうです。

その国の男性は、女性に足元を飾る物をプレゼントするそうです。そのようにして男性は自分の妻を見分けているそうです。そのためこの国の女性は皆、足元美人になるということでした。

ちょっと意地悪なことを考えてみると、この国で女性が男性から逃げるためには、足元を変装するだけでいいことになります。そんなことをする女性が居るのかどうか知りませんが、もしその日、夫が知らない靴を履いていれば、旦那さんは自分の妻を見分けることが出来なくなります。彼は戸惑って妻の名前を呼ぶしかないでしょう。妻を見分ける方法は、夫の呼ぶ声に妻が答えることだけになってしまいます。

聖書では神と人との関係を、夫と妻と喩える箇所がたくさん出てきます。この場合、夫である神は妻である私たち人間の全てを知っています。どんな服装をしてどこに隠れようとも、神は妻である私たち人間の全てを知っています。

ところが私たち人間は夫である神を見失っています。旧約聖書のイザヤ書45章には、神の教えから離れてしまった古代イスラエル王国(ヤコブ)に対して、神が呼びかけている場面が出てきます。この呼びかけはそのまま、神の全人類に対する呼びかけです。

以下に引用してご紹介します(イザヤ書45章4節5節):

(引用始め)
 わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書きを与える。
わたしが主(神)である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。
(引用終わり)

 
夫である神が私たちを呼ぶ一方で、妻である私たち人間は神のことを知りません。ちょうど私たちの目に覆いがかけられて、相手が見えないようになっているようなものです。私たち人間は、ブルカよりも見通しの悪い覆いを、心にかけながら歩いています。しかし神には全てが見えています。そしてこの覆いは、キリストによって取り除かれ、私たちは自由になります(第二コリント3章14節から18節)。

神はあなたの全てをご存知です。あなたの良いところも悪いところも、全てお見通しです。神の前では隠されたものは何一つありません。それでいて神は、あなたを名前で呼んでいます。

もしあなたが今日、神の語りかけを感じたのなら、思い切って神に近づいてみてください。神はあなたが近づいた以上に、あなたに近づいてくださいます。

神に近づくことによって、あなたは心の覆いを取り除くことが出来ます。心の覆いを取り除いて、あなたも神の自由を手に入れてください。

あなたがキリスト者なら、今日という日の全ての出来事を通して、神の細き御声を感じ取りましょう。そのことによって神はあなたに近づき、あなたの心には神の愛と力といのちが満ち溢れるでしょう。神との交わりを深めることのみが、あなたを癒し導き、あなたを神の聖さに近づけます。

あなたがまだこの神と和解をしていないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神との交わりの内に入ることを強くお勧めします。神は常にあなたを、あなたの名前で呼んでいます。この方のほかには神はいません。神の声にこたえ、あなたも自由を手に入れてください。

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2009年08月19日

聖書の神18「多様性を喜ばれる神」

 言葉には独特の雰囲気があるようです。今日、8月19日の読売新聞朝刊の編集手帳に面白い記事が載っていました。

ドイツのソプラノ歌手のエリカ・ケートさんは、言葉の響きやにおいのようなものに敏感な方だそうです。彼女によるとイタリヤ語は歌に向く言葉で、フランス語は愛を語る言葉、ドイツ語は詩を作る言葉、そして日本語は人を敬う言葉なのだそうです。この記述を呼んで私は、英語は友達を作りやすい言葉なのではないかと思いました。

言葉にはそれぞれ長所短所があります。たとえば日本語は主語を省略することがよくあります。これは外国人が日本語を学ぶ時には苦労をする点らしいです。

しかしこの特徴のゆえに物事をやんわりとあいまいに指摘することが得意です。抽象度が高い表現方法が、俳句の発達を促したのではないかと私は思います。

アメリカの大学の英文学の授業で俳句を学んだことがあります。松尾芭蕉の「古池や かわず飛び込む 水の音」の英訳を読みましたが、やはり雰囲気が変わってしまっていました。

それぞれの言葉にはそれぞれのリズムや雰囲気があるようです。エリカ・ケートさんが言葉の響きや匂いのようなものをそれぞれの国語に感じるというのもなんとなくうなずけます。

ヨハネの黙示録の中には次のような記述があります:

 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、誰にも数え切れぬほどの大勢の群集が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊(キリスト)の前に立っていた。(7章9節)


 これは来るべき天での礼拝の様子です。神の国では様々な言語や文化の全てが神を礼拝することになります。

また聖書は次のようにも書いてあります:

 主(神)は言われる。わたしは生きている。全てのひざは、わたしの前にひざまずき。すべての舌は、神をほめたたえる。(ローマ書14章11節&イザヤ書45章23節)


神はこのように、それぞれの人々の言語的文化的な多様性を喜んでおられるようです。私たち日本人も天の国において日本人らしく神を賛美する時が必ず来ます。神は日本人を愛し、日本の文化も愛されています。

日本語には日本語特有の良さがあるように、あなた個人にもあなただけにある特有の良さがあります。

神が日本人独特の礼拝を喜ばれるのなら、同じように神はあなたにしかできない独特な神との交わりを喜ばれるはずです。

あなたが今どのような状態にあったとしても、今あなたは神の前に出ることができます。神は今のそのままの状態のあなたにかかわりを持ちたい方です。それゆえにイエス・キリストはあなたのために十字架上で愛を示されました。

あなたも今のあなたにしかできないやり方で、神につながって見ませんか。神はあなたを喜んで受け入れてくださるはずです。

あなたがキリスト者なら、神の前にいつでも大胆に出ることのできる特権を常に行使しましょう。この方とつながることによってのみあなたの道は開かれ、あなたは愛と力と命を受けることができます。

あなたがまだこの方を受け入れていないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神との交わりの内に入ることを強くお勧めします。

今日もこのブログを訪れてくださり有り難うございます。

皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの恵みと哀れみが豊かに降り注ぎますように。

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2009年08月13日

聖書の神17「そこを出でよと神は言う」

 新約聖書のエペソ書1章4節には次のようにあります:

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。


この聖句によるとキリスト者は全宇宙が始まる前から神によって選ばれていたことになります。

この聖句にある「選び」という単語は、新約聖書の原語であるギリシャ語ではエクレゴーという単語が使われています。この単語はエクという語とレゴーという言葉に分けることができます。エクとは「出でよ」という意味で、レゴーとは「わたしは言う」という意味です。

すなわちエクレゴーの選びと言う意味は、神がそこから出てきなさいと言うことを表します。

私自身のことを振り返って考えるとき、キリストを信じる前から神は私を幾度も呼んでいたことに気がつきます。しかし私は頑なでした。

私は自分が滅びに向かっていたことも知らずに、自分が正しいと思って生きていました。私は自分の行きつく先も、自分自身のことも見えずに神を必要としていませんでした。すべてをご存知であった神はそんな私に対して絶えず「そこを出て私に帰りなさい」と語っていたように思います。

その時には自分がクリスチャンになるなどとは想像もできませんでした。しかし神は私をすでに選んでいました。それゆえ神は「そこを出なさい」と語り続けてくれたのです。

神は忍耐強く私に語りました。それは私が神の選びであったからです。私は拒絶していましたが神はすでに選び、それゆえに語り続けました。

いま神とつながっている私には、神との交わりが呼吸のように不可欠です。神は常に語ってくれます。それは私が神によって選ばれているからです。

このブログを読んでくださるあなたにも神は語っているはずです。ひょっとしたら神はすでに忍耐強くあなたに語り続けているかもしれません。神が忍耐を持って選びの民が振り向くのを待つのは、彼らが滅びに向かっているからであり、そして彼らが神にとってかけがえの無い宝の民であるからです。

あなたは神によって招かれています。なぜならあなたはすでに選ばれているからです。そして神にとってあなたは、かけがえの無い宝なのです。

あなたは神の招きを受け取る価値があります。あなたは神に愛されているのです。

あなたがキリスト者なら、今日もあなたに語りかける神と深く交わり、神からくる愛を受け取りましょう。この愛はあなたを生かし導き、あなたをキリストの姿に変えます。

あなたがまだこの方の招きに答えていないのなら、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神との交わりの内を歩むように強くお勧めします。

今日もこのブログを訪れてくださり有り難うございます。

皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの祝福と恵みが豊かに降り注ぎますように。

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2009年07月27日

聖書の神16「交わりを喜ぶ神」

 打ちひしがれた人は言い訳を探すようです。それは人の弱さのゆえです。おそらくそのような人は、長い間他の人が善意と称してその人を叱咤激励し、それでも一向に事態が好転しないために、自己防衛としてすぐさま言い訳を答えるようになってしまったのかも知れません。

イエス・キリストが生きた今から2000年ほど前の時代にもそんな人がいました。

彼は神の奇跡が現れるという池で、その奇跡を長いこと見ていました。その池には天使たちが時々現れて、池の水をかき回すときがありました。その時に最初に池の中に入った者は、どんな病も癒されたといいます。彼はその奇跡を見続けていましたが、自分が真っ先に池に入ることはできませんでした。

そんなときにイエス・キリストが彼を見て、「よくなりたいか」と尋ねました。しかし彼が答えたのは言い訳でした。以下に聖書のその箇所を引用します(ヨハネ5章6節9節):

(引用始め)
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りていくのです。」
イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
するとその人はすぐに治って、床を取り上げて歩き出した。
(引用終わり)


 イエスは「よくなりたいか」と聞いたのに、彼の答えは言い訳でした。おそらく長い間、多くの人々に「なぜ癒されないのか」と聞かれたのでしょう。偉大な教師と噂のあるイエスが彼に質問をしたとき、叱責されたと思いとっさに自分を守るために言い訳をしたのかもしれません。しかしイエスは彼を癒されました。なぜでしょうか。

イエスに質問され頓珍漢な答えをした彼も、イエスのことを「主よ」と呼んでいます。この「主」という言葉はギリシャ語で「クーリエ」といい、自分の主人に対する言葉です。親切(?)な英訳はここでわざわざ人間の主人に対する言葉、“master マスター”や、“sir サー”を使っていますが、ここでは癒しの信仰があったことを考えれば、“Lord ロード”でなければなりません。つまり、彼が癒されたのは、彼がイエスの噂を聞き、イエスのことを聖書が預言した救い主だと信じ受け入れていたからです。彼はイエスを主としていたのです。

私たち現代人も彼のように、打ちひしがれて言い訳がましくなることがあります。しかしこのエピソードから分かることは、神は自分を信じる者との交わりを喜ばれ、そしてその交わりがどんなにちぐはぐなものであったとしても、そこに神は力を現してくれると言うことです。

私たちはこの世の中で様々な試練に会います。その試練は時として私たちを打ちのめします。試練が打ちのめすばかりか、私たちを叱咤激励しようとする人々まで、知らず知らずの内に私たちを苦しめることもあります。

そんな時私たちも、この男のように色々な言い訳で自己弁護し、他人からの攻撃から身を守ろうとします。しかしそんな混乱の中にあっても、イエスを主とすることに神は力を現します。神はどんなに混乱した祈りであっても、その交わりを喜ばれるのです。

あなたはこの方との和解を既に終えていますか。

あなたがキリスト者なら、どんなに打ちひしがれ困難な目にあっているとしても、神との交わり、祈りを保ち続けましょう。それはもはや祈りの形態を逸脱した自己弁護かもしれません。あるいは神に対しての叫び声や愚痴になるかもしれません。しかし主なる神はその交わりを喜ばれ、その交わりに力を現してくださいます。この方に叫び続けましょう。

あなたがまだこの方との正しい関係に入っていないのなら、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神との交わりの内に入ることを強くお勧めします。この交わりがあなたを癒し導き、あなたに勝利を与えます。

今日もこのブログを訪れてくださり有り難うございます。

皆さんの上にわたしの愛する神、主イエス・キリストがその栄光と祝福を存分に注いでくださいますように。

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2009年07月06日

聖書の神15「熱いか冷たいかを望む神」:神の不思議を思えば力が湧く

 最近は路傍伝道をしているクリスチャンをあまり見ませんが、私が神学生だった頃は毎週金曜日に、神学生の有志が集まって新宿のアルタ前の広場で伝道活動をしたものです。

ギターの演奏とともに賛美をする者、その傍らで大声でメッセージを語る者、伝道用の小冊子(トラクト)を道行く人に手渡す者などで、総勢10人ほどが活動をしていました。

ほとんどの人が無関心で、時たま酔っ払いがからんできます。しかしその反面、熱心に話を聞いてくれる人や、反対に敵対心むき出しに睨んで通り過ぎる人もいます。無関心な人々よりも、私たちに対して熱いか冷たいかどちらかの反応をした人のほうが、神は喜ぶようです。なぜなら聖書に、「わたし(キリスト)はむしろ、あなたがたが冷たいか、熱いかであってほしい。」とあるからです(黙示録3章15節)。

たとえばこんな人が実在しました。彼は意地悪にもトラクトを配る女の子に笑顔で近づき、手を出してニコニコしながらそれを受け取り、「有り難う」と御礼まで言いました。しかし突然その場でトラクトをびりびりに破いてしまい、紙吹雪のように空に投げ捨てて、意気揚々と肩で風を切ってその場を去って行きました。

こんな時キリスト者はどうするべきなのでしょうか。それよりも、こんなことをしたその男性はどうなってしまうのでしょうか。

私はその男性のその後を知っています。キリスト者に対して無慈悲で冷酷な態度で接した彼も、キリストの言葉で言う「冷たい」反応をした者です。「冷たい」反応は逆説的に言えば、それだけキリストを意識していると言うことです。

彼はあるきっかけで教会に行きます。何も知らず、何も信じるつもりもありませんでした。しかし教会の賛美歌が彼の心を打ちます。彼は理由も分からずただ泣きました。そんなことの心地よさもあり、しばらくの教会通いの後、ついにキリストを受け入れる決心をします。

更にそれに留まらず、彼はついに神学校まで行き、彼がかつてトラクトをびりびりに破いたその同じ場所で、嬉々としてトラクトを配りました。

今彼は何をしているかといえば、このブログを書いています。

神は不思議なことをなさると思います。私は自分がキリストを信じるようになったいきさつを考える時、つくづく神は不思議なことをされると思い、感動します。(私の救いに関しては以前に書きました。「なぜキリストを信じたか」 http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/112376454.html?1246864061

キリスト者は自分の救われた時の喜びを思い出すとき、元気が出るようです。ダビデも詩篇の中で以下のように祈っています:

(引用始め)
 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が私をささえますように。(詩篇51編10節から12節)
(引用終わり)


 ダビデ王は姦淫の罪で打ちひしがれている時にこの祈りをしました。神によって救われた時の喜びが彼に活力を与えることを知っていたからです。

私は信じています。おそらく私にトラクトを渡した女性は、私の救いのために祈ったことでしょう。そんな小さな祈りが、神の前ではきよく純粋な、力のある祈りなのです。そのことを思うといつも祈りの力の不思議さを思います。

あなたがキリスト者なら、あなたに不思議をなした方に信頼し、神の不思議を思い出して力を受けましょう。そのような神との交わりこそ祈りであり、この交わりがあなたに更なる奇跡を見せ、あなたに愛と力と導きを与えます。

あなたが未だ神との和解を済ませていないのなら、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れあなたも神との交わりの内を歩んで下さい。神はあなたに、「熱い」か「冷たい」かのどちらかになることを望んでおられます。

今日もこのブログを読んで下さって有り難うございます。

皆さんの上に、わたしの愛する神、主イエス・キリストの栄光と祝福が現れますように。

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2009年05月29日

聖書の神14「聖霊をねたむほどに慕う神」

お早うございます。
モトイです。

 新約聖書のヤコブ書4章5節には、神がキリスト者の内に住む聖霊なる神を、「ねたむほどに慕っておられる」と言う表現がされています。なんだか不思議な表現です。

神は愛です。三位一体の神はそれぞれがそれぞれを慕い、愛の表現の対象です。しかしその愛をもっと表現し与えるために、人間を造られました。聖書は父なる神が、その人間に内住するようにとキリスト者に遣わした聖霊なる神を、うらやんでいると言うのです。

三位一体の神はそれぞれが役割を持ちます。父なる神は全地の創造者、イエス・キリストは救い主である神、聖霊なる神はキリスト者の内に住む助け手である神、という具合です。

この役割分担は厳格で、黙示録の5章には助け主である神、キリストしか解く事のできない封印が登場します。この封印はキリストが十字架の死を全うし勝利を得たことにより、解く事が許されたのです。この封印を解くのは天の父でも聖霊でもなく、救い主であるキリストの役割です。

同じようにキリストを信じ受け入れた者の内に住む役割も、聖霊なる神だけに許された事です。この神はキリストの栄光を表すために、いまも生きて地上で働いています。父なる神はこの聖霊なる神を慕っています。しかもねたむほどに。その理由をもう少し噛み砕いて説明しましょう。

神は人を愛する目的で創造しました。アダムとエバは、エデンの園で神とともに暮らしていました。しかし人は神の戒めを破り、善悪の知識の木から実を取って食べてしまいました。このことにより人は神が見えなくなり、神が与える知恵や知識よりも、自分が善悪の知識で物事を判断するようになったのです。

この罪により神は人と住む事が出来なくなり、人をエデンから追放しました。人は罪を背負って自分で生きなければならなくなったのです。

しかし神は人を救う計画も用意しました。それは救い主キリストが、人の身代わりになって罪を背負う事です。イエス・キリストはそのために地上で人として生活しました。

キリストが人として、人の間で生活し、十字架上で死を全うされた事により、信じるものは神と和解する事ができるようになりました。このことによって神の人類救済の計画は完了したのです。

しかしまだ全うされていない計画もあります。それは、神がもう一度人とともに生活する事です。そしてそれは、聖書の預言が全て成就する時に起こります。その日その時は人の子であるキリストも天使たちも知らない、天の父なる神の専任管理事項です。

キリストは人の間で生活されました。聖霊はキリスト者の内に今も住んで働いています。天の父が聖霊を慕いながらもねたむのは、実にこの人の間にすむことに対してのねたみなのです。

神は人を愛しておられます。そして神は人とともに住む事を望んでいます。それは人がイエス・キリストを信じ受け入れる事によって実現しますが、父なる神は永遠の時に人とともに住むことを望んでいるのです。

三位一体の神は三つで一つという特徴を持ちます。それゆえに、聖霊なる神との交わりはすなわち、父なる神との交わりとも、イエス・キリストとの交わりとも言えます。しかし、聖霊をねたむほどに慕う父なる神は、ご自分も人とともに住む事を熱望しています。それほどまでに神は人とともに地上で歩みたいのです。

私たち人間は神に愛されています。そして神は、私たち人間とともに地上で住む事を望んでいるのです。あなたはそれほどまでに神に招かれているのです。

あなたはこの招きを今日、受け取る事も退ける事も出来ます。

あなたがキリスト者なら、この招きを今日も受け取り、自分の力で善悪の判断をしようとせず、全てを神との交わりの中で導かれるようにしましょう。神はあなたとともに歩み、あなたの歩みを導きます。

あなたがまだこの方を受け入れていないのであれば、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、神とともに住む生活を実現してください。この招きを無駄にせずに受け取ってください。

今日も最後まで読んでくださって有難うございました。皆さんが今日、神とともに生活出来るようにお祈りします。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html

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2009年05月28日

聖書の神13「神はいつでも神であると言う信頼」

 ダニエル書3章には、ダニエルの三人の友人の有名な話が載っています。この三人は神と人とに対して大胆な宣言をして、自分の人生の中の逆境を受け入れた人々です。

バビロンの王であったネブカデネザルは金の像を作って、それを拝めと国民に命じました。その命令はほぼ守られ、楽器の合図があれば国民はこの金の像を拝みました。

ところがユダヤ人であったダニエルの友人の、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはこの像を拝みませんでした。それゆえ王は激怒し彼らを捕まえて、「もし拝まないなら、あなた方はただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなた方を救い出せよう。」と言いました(15節)。

ユダヤ人は偶像を拝みません。しかし妥協してこの金の像を拝んで、心の中で本物の神を拝むと言う選択も出来たかもしれません。人間は弱いものです。自分の身を守るために、色々なところで自分の意見を曲げて、表面上は従ったりするものです。

しかしこの三人は違いました。それどころか、王に抗弁までしてこう言いました(16節17節):

「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。」


 何と大胆不敵な発言でしょうか。バビロン王国ではユダヤ人は単なる奴隷です。しかし特に目をかけられ、政府の高官に採用された彼らは、その奴隷の中でも特に幸せな人々でした。しかしこの不遜ともいえる発言は、その幸運を台無しにしかねないものでした。

妥協してそれなりの人生を歩む事は、彼らにとっては自分たちの信念に反する事でした。それは神に対する裏切りであり、自分に対する裏切りでした。妥協はその場その場では時間を稼げますが、いずれ自分たちを堕落させ、なまぬるくし、生きていても死んだような状態にしたでしょう。

この発言は彼らが信じていた神に対する信仰から発せられていました。彼らは自分たちの信じる神が、自分たちのことを救うと王に対して断言したのです。しかし次の発言は、神に対する従順とへり下りから発せられています(18節):

「しかし、もしそうでなくとも、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」


 王に対しては「神は自分たちをあなたから必ず救う」と証言し、神に対しては「この運命を受け入れ、従順してこの身を捧げます」と宣言したのです。

人は自分の運命を呪ったり、それをもたらした人や自分の過失を悔やんだりします。普段、冷静な時には考えないようなやり方で、自分の苦境の原因探しをし、犯人を血祭りに挙げようと徹底的に嘆いたり悔やんだりします。

その犯人は時として自分の親であったり、友人であったり、学校教育や社会や世の中であったりします。自分の外に理由を見つけられるときはまだ良いほうで、犯人探しが自分自身になった時には、生きる気力さえ失ってしまいます。

この三人は、神が全世界を治める方であり、自分たち三人の責任者である事を知っていました。それゆえ大胆な信仰の宣言を王に対してし、「神は救う」と言ったのでした。

しかしそれ以上にこの三人が感動的なのは、自分たちの責任者である神が、自分たちに対して用意した道は、どんな結果になろうが歩むと宣言した事です。

聖書の神は感情のある、生きた方です。私たちが神について感動する時、神も私たちに感動してくださいます。その感動は私たちにいのちを与え、神の御手を動かします。

王を激怒させた三人は、即座に燃える火の炉に投げ込まれます。しかも怒り狂った王は、普段の七倍も炉の火を強くしました。あまりに炉の炎が激しかったので、三人を投げ込んだ役人までが火炎に巻かれて死んでしまったほどです。

神を感動させた彼ら三人は、炎に焼かれて死んだとしても本望だったでしょう。彼らは神の責任によって生かされ、神の責任によって死ぬのです。神を呪う事もせず、神に対する従順を宣言した彼らに、思い残す事は無いでしょう。その行為は彼らにとっても感動的な死をもたらしたはずです。

しかし神は彼らの従順を、そのまま放って置かれる方ではありませんでした。生ける方である全能の神は、ひとりの御使いを送り、炉の中の三人を守りました。アビシャク、メラク、アベデ・ネゴの三人とこのひとりの御使いは、炉の中で自由に歩き回り、ネブカデネザル王を驚かせました。このひとりの御使いは、人として地上に生まれてくる前のイエス・キリストであるとされています。

王は驚きながらも三人を炉から呼び出し、彼らを「いと高き神のしもべ」と呼びました。そしてこの神こそ敬われるべき神とし、全国民にこの神を侮らないように命じました。

人は苦境に陥ります。弱い罪びとである私たちは、全世界を治める方が全ての責任を負ってくださる事を忘れがちです。その結果人は、苦境の中でもがき苦しみ、自分と人と全世界を責めます。人は徹底的に何かに反抗し、それを受け入れる事を拒絶します。

強い人なら信念を持って進めるでしょう。しかし神以外は全てが移り変わるもの、頼りにならないものです。しばらくは進んでも、いずれ必ず滅びに至ります。

あなたは何を頼りに生きていますか。その頼っているものは、本当に頼りになるものでしょうか。

頼れる方はお独りのみです。それは全世界を創られた、創造主なる神です。この神があなたを造り、あなたを管理されています。

もしもあなたが自分の主権をこの方にゆだねるなら、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが持っていた、死に直面してもゆるぐ事のない大胆さと平安があなたを包みます。

あなたがこの神を既に受け入れた方なら、益々この方に信頼し、この方との交わりを深めてください。ただこの方のみがあなたを生かし導きます。

あなたがもしこの神をまだ受け入れていないなら、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神との交わりの中を生きてください。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html

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2009年05月22日

聖書の神12「運命を知っていた人」

お早うございます。
モトイです。

 もしあなたが、あなたの過去に戻れるとして、全く同じ人生をもう一度歩む事が出来るとしたら、もどってみたいと思いますか。

とても恵まれた幸せな人なら、あるいはもどりたいと思うかもしれません。全く同じようにではなく、やり直せるのであればもどりたいと思う人は多いでしょう。

人はたいてい過去に失敗をしたり、後で後悔する事をしてしまっていたりします。それらをやり直したいと思う人はいても、全く同じように歩みたいと思う事は希です。

あらかじめそれらの事が起こると分かっているのに、何も出来ずにそれらが近づく事に身を任せるのは、ものすごく勇気がいることでしょう。

それらの事が自分の責任で起こる事ならまだしも、他人の責任で自分がいやな目に会うのは、たいていの人は耐えられません。

しかしイエス・キリストは、そのような人生を歩まれました。しかも、私たちの罪のゆえにです。

イエス・キリストは神である方なのに、罪びとのために十字架につくために人生を歩まれました。十字架につく事が分かっていたのに生まれ、十字架に向けて人生を歩まれたのです。

しかもイエス・キリストがそうされたのは、罪の汚れがない方としてふさわしい事だったのです。

新約聖書のヘブル人への手紙には、全能者である神が、救い主であるキリストを私たちのために苦しめられた事について、次のように書いてあります(2章10節):

(引用始め)
神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因である方として、ふさわしいことだったのです。
(引用終わり)


 父なる神にとって、子なる神、イエス・キリストを私たちのために苦しみに合わせる事はふさわしい事でした。

子なる神、キリストにとって、罪の汚れを持たないご自分を、私たちのために十字架上で全うされる事は、神としてふさわしい事でした。

では私たち人間にとってはどうでしょうか。私たち人間は、罪のゆえに神の栄光から離された者です(ローマ3章23節)。その罪に汚れ、滅びに向かう私たちが、ただ信じるだけで神の前に出られる特権を持つなどと言う事が、ふさわしい事でしょうか。けっしてふさわしくはありません。

しかし神にとっては、この救いの道のみが、人類を救うのにふさわしい方法だったのです。なぜなら、救いは神からの一方的なプレゼントであり、人間の努力がそこに介在してはいけなかったからです(エペソ2章8節9節)。

私たちはただ恵みにより、イエス・キリストの救いを受け取ります。私たちはそれにふさわしくなかったのに、神がそれを提供するのにふさわしい方であるので、私たちは救いを受け取る事が出来るのです。

キリストが十字架上でいのちまで捨てて私たちに救いの道を示したのは、私たちがそれにふさわしいものを持っていたからではなく、キリストがそうするのにふさわしい愛の方であったからです。

キリストの愛は完全な愛であるため、傷つき汚れ、疲れ果てた私たちをその完全な愛で愛する事が出来ました。私たちはこの偉大で完全な愛で愛されるのにふさわしいとされたのです。

あなたにはこのキリストの十字架の愛を受け入れるだけの価値があります。それはあなたがそれにふさわしいからではなく、キリストがそうする事にふさわしい方だったからです。

このイエス・キリストとの交わりは、あなたを益々生きるのにふさわしい、愛されるのにふさわしい存在へと変えます。それはあなたがそれにふさわしいからではなく、イエス・キリストがそれを与えるのにふさわしいかただからです。

あなたがもし既にこの方を知っているのなら、栄光を与えるのにふさわしい方に、益々深い交わりを求めましょう。主は必ずあなたを活かし導きます。

あなたがもしこの方をまだ受け入れていないのであれば、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、あなたもこの神の前に立つ毎日を過ごしてください。この方は喜んであなたにいのちを与える方、そうするのにふさわしい方です。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html

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2009年05月07日

聖書の神11「甘える事の強さ」

 私たち人間は不平や不満をつぶやきます。人を非難したり、自分自身の不器用さを嘆いたりと、不平や不満の対象は数限りなく出てきます。時にはそのマイナスの感情を直接相手にぶつける事さえあります。直接ぶつけられなくとも、心の中で相手を攻撃したりします。

これらの心のうめき声は、私たちがこの世界で生きていく上で誰もが持つものです。聖書に登場するダビデも、そのようなうめきを持った人物でした。正しいことをしているのにねたまれて命さえ狙われたり、姦淫の罪を犯してそのことのゆえに災いにあったり、王であるのに身内から追われたりと、むしろ私たちよりも心のうめきや叫び声が多かった人物です。

そのダビデは、聖書の詩篇の中に様々な叫びを記しています。その叫びは彼の正直な祈りの記録です。その詩篇を見れば人と神との関係を学ぶ事が出来ます。

ダビデの叫びは人に聞かれては「女々しい」とか「情けない」と言われそうな内容のものばかりです。時には神に対して、自分の敵を呪うような要求まで叫んでいます。いまのキリスト教会内でこのような祈りがなされたなら、おそらく眉をひそめられたり、品性を疑われたりするかもしれません。しかし神は、私たちにすべての問題を手放してご自身にゆだねてもらいたいのです。

ダビデの記した詩篇55篇22節には「あなたの重荷を主(神)にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」とあります。この「心配する」と言う言葉のヘブライ語の原語はコールという言葉で、「管理する」とか「養う」という意味があります。

 この詩篇の言葉を、ダビデが悟っていた神の性質とともに分かりやすく表現すれば、次のようになります。

あなたのすべての重荷を神にゆだねなさい。それはあなたが握っている以上、あなたの問題でしかありません。しかしそれを神にゆだねればそれは神の問題となり、神があなたを養い管理します。


ダビデはこのように神を理解していたからこそ神に自分自身をさらけ出し、人から見られたならば見苦しいまでの自分の心情を、率直に神に告白していたのです。

そして多くのダビデの詩篇がそうであるように、叫びで始まる祈りは、神への信頼の告白へと変わり、神の栄光をたたえる賛美へと変わり、すべての事を神に感謝する祈りに変わっていくのです。

私たち人は、不平不満を人や自分にぶつけます。しかしそれらを神にぶつけるのであれば、神が私たちの心をとらえ、私たちの内側を変えそして、私たちの外の世界を変えてくださるのです。

あなたに今うめきや叫びがあるのなら、ダビデがしたように神に叫びましょう。けっして心の中であの人この人を呪ったり、自分自身の不幸を悔やんだりせず、すべての見苦しい思いさえ神にぶつけてゆきましょう。ダビデの詩篇が教えてくれる神と人との関係は、このような甘えの関係です。あなたは神に甘えるように造られた、神の被造物です。

聖書の神はあなたに甘えるように求めておられます。あなたは既にこの方との関係がありますか。

あなたが既にこの方を知る者なら、ますますいっそうこの方に甘え、あなたの内にあるものをさらけ出しましょう。彼はあなたの心をとらえ、あなたを最善へと必ず導きます。

あなたがもし未だこの方を知らないのであれば、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、神との交わりの内に入る事を強くお勧めします。この世にはあなたに解決できない問題が多すぎます。

あなたが今日も神の交わりの中に留まれるようにお祈りします。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html

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2009年04月29日

聖書の神10「特権を行使するとは?」

 キリストを信じ受け入れればばら色の人生が待ち受けているのでしょうか。結論から言えば残念ながらそうではありません。ではなぜ私はここで皆さんに、イエス・キリストを受け入れる事を訴えているのでしょうか。

それは私たち人間にとって、イエス・キリストを信じ受け入れる事が神との和解であり、神と和解しない限り私たちは、全知全能なる全世界の創り主の前に出る事ができないからです。

私たちは罪を背負い罪の中で生活しています。ほとんどの人々は自分が罪びとである事さえも気付かずに、自分と他人の罪ののろいの中でもがき苦しんでいます。

世の中を見れば社会は技術革新により便利になる反面、人々の心がますますすさんで来ているのが分かります。

私がここで皆さんに手に入れるようにと訴えているのは、イエス・キリストを信じることによるばら色の人生ではなく、イエス・キリストを信じ手に入れる事ができる、神の前に大胆に出られる特権です(ヘブル4章16節)。

キリストの弟子であったペトロは、キリストが十字架につくために囚われた時、自分も囚われそうになり逃げました。逃げただけではなく、キリストの弟子である事さえ否定しました。一度だけではなく、三度もキリストを否定しました。このペテロは私たちの心の弱さをそのまま持っていた人です。

私たちは救い主である神、イエス・キリストを情熱を持って愛したとしても、いざ自分の身に困難がやって来るとつい自分を愛し、自分で自分を守ろうとしてしまいます。

ペテロもそうでした。キリストが捕らえられ、自分もとらえられると思いました。キリストの弟子である自分が神により守られるとは考えずに、自分で自分を救おうとしました。困難がやってきたその瞬間、ペテロは全能の神につながっていた事実を見失い、迫り来る危機を見つめ恐怖に陥り、自分の力に頼る普通の人になってしまったのです。

しかし後になり神の全能の力に信頼しきったペテロは、苦境に立つキリスト者に向かい次のように神に拠り頼むように励ましました。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです(第一ペテロ5章7節)。


 ここでペテロが使った「心配する」という言葉は、ギリシャ語の原語によると、肩代わりをする、とか、(行動を起こすべく)考える、という意味になります。

さらに「ゆだねる」という言葉は原語では、投げ落とすとか、放り投げるという意味があります。

つまりペテロは困難に立つ人々に対してこのように言った事になります。

あなたの思い煩いはあなたが抱え込んでいる以上あなたの物でしかありません。しかしあなたが既に神のものであることを思い出しなさい。あなたが抱えている問題は神のものです。ですからあなたの問題をすべて、神に向かって放り投げなさい。完全に手を離して神の御手に任せなさい。全知全能の神がそれを受け取り、あなたのために最善を尽くされ行動されます。


どうですか。これが以前は自分で自分を救おうとし、神から目を離して困難に飲まれた男の言う事と思えるでしょうか。ペテロは弱い人でした。私やあなたと同じです。しかしその弱さが彼を神の前にへりくだらせ、神とのつながりがすべての問題の解決だと悟らせたのです。

あなたもこのようなキリスト者となるように招かれています。あなたがもしキリストを既に知るものなら、ますます神との交わりを密にし、神のいのちと力の中で歩みましょう。

あなたがまだ神との和解が無いのであれば、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、神との交わりの内に入る事を強くお勧めします。

キリスト者となる事があなたの目的ではありません。それは神の前に出る許可証でしかありません。その許可証を用いて得る事ができる、神との交わりがあなたを救い導くのです。

あなたがこの特権を受け取り、大胆に行使する事ができるようにお祈りいたします。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html

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2009年03月09日

聖書の神H「イエスの十字架上での叫び」

 イエスの十字架上での叫び、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタイ27章46節)は、クリスチャンではなくとも知る人ぞ知る叫びです。(マルコ15章34節では「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」。)

その意味は、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味です。この意味からイエスの苦痛を表した叫びであることだけが強調されますが、この叫びが旧約聖書の引用であることをを考えると、イエスのとてつもない神への信頼と,神に抱く希望が見て取れます。

この叫びは詩篇22章の冒頭の引用です。ダビデ王が記したこの詩篇22篇は、彼が命を狙われるほどの苦境のときに記した、魂の叫びともいえる祈りの記録です。

イエスはユダヤ人でしたので、ユダヤ的な文化を背景にこの詩篇の冒頭を引用しました。ユダヤ文化では、人が詩篇の冒頭を引用すれば、その人はその詩篇の全篇を口ずさんだのと同じとみなされます。

日本でも似たような文化が残っています。私は得意ではありませんが、たとえば万葉集や百人一首が好きな方がそうです。

「春すぎて、夏きたるらし、白たえの」とある人が詠めば、「衣干したり天の香具山」と下の句が想像されるようなものです。

イエスが十字架上で詩篇22篇を引用したことは、この文化圏にある人には驚愕の光景でした。なぜならこの詩篇22篇は絶望の詩ではなく、神の栄光をたたえた力強い歌だからです。

始まりはダビデの絶望から来る魂の叫びです。しかしのこ叫びは「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」と続き、神の主権を信頼する告白へと変わります。

さらにダビデの叫びは神への信頼と変わります。彼は24節で「まことに、主(神)は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった」と、神に対する全面的な信頼を告白しています。

魂の叫びで始まった詩篇22篇は、神への主権への信頼から全面的な信頼へ、さらに神を賛美する祈りに変わり、最後は神の国の永遠の支配を褒め称える祈りで終わっています。

イエスが十字架上で詩篇22篇の冒頭を引用したとき、ユダヤ文化にいた人々にとっては驚きでした。なぜなら、イエスが死に至るほどの苦境の中にあっても神を賛美し、神の国の到来を見ていたことになるからです。

2000年前にイエスが叫んだこの叫びは、苦境に立つ現代の人にとって大きな励ましです。なぜなら、あなたもどんな苦境の中にあっても神に叫ぶことにより変えられ、神を賛美し神の国の力強い到来を見ることができるからです。

現代は複雑な社会のゆえに、人々の苦しみも大変複雑になっています。健康の問題、人間関係の問題、金銭の問題と、様々な問題の中で人はもがき苦しんでいます。

この苦しみは、私たち人間が神から離れてしまったことによります。神との和解こそが私たち人間に先ず必要なことです。

もしあなたがいま苦境の中にいるのでしたら、ダビデのようにまた、イエスのように、とにかく神に叫ぶことです。神とのつながりだけがあなたを助けます。

イエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神の交わりの中で生きてください。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html
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2009年02月17日

聖書の神G(キリストの従順)

 新約聖書のピリピ人への手紙は、キリストは従順な方であると伝えています。

彼は神に対して従順で、「実に十字架の死にまでも従われた」と同書は教えます(ピリピ2章8節)。

キリストは救い主なる神です。全知全能の神で、あらゆる被造物は彼に従い、堕落した天使たち(悪魔や悪霊たち)でさえ自分たちが罰を受ける時が近いことを知り身震いをしています(ヤコブ2章19節)。

キリスト御自身でさえ十字架につく直前に、自分を捕らえに来たた人々に抵抗しようとして戦った、自分の弟子にこう言っています(マタイ26章52節〜54節):

剣をもとに収めなさい。剣を取るものはみな剣で滅びます。それとも、わたしが父(なる神)にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。


 キリストがここまで聖書の預言、すなわち父なる神の御心に従順したのは、愛するものを守るためでした。

彼が愛したのは、神とともに歩むために造られた存在なのに神を離れて罪の中でもがき苦しむ人間です(ヨハネ3章16節)。

キリストはあなたの罪を贖うために十字架につきました。あなたはいのちがけで愛される価値のある存在なのです。

キリストは人として生まれた者すべてが見習うべきお手本です。聖書はこう言っています(ヘブル人への手紙12章2節〜3節):

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。


 キリストを信じ受け入れ神と和解し、常にイエスの御霊である聖霊なる神と交わりを保って生きることは、すべての人に招かれた神へつながる道です。

世の中は罪によって人を汚し、その汚れによってまた人は人を傷つけ苦しめます。唯一のまことの神につながり、また、つながり続けることだけがあなたに力を与えます。

あなたがイエス・キリストを信じ受け入れ、人の本当の姿で生きることができるようにお祈りします。
ラベル:聖書の神
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2009年02月16日

聖書の神F(弱さのゆえに十字架についたキリスト?)

 新約聖書のキリストを表現した言葉に「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます」というのがあります(第二コリント13章4節)。

キリストは三位一体の神の、第二神格の救い主である神です。この神が「弱さのゆえに十字架につけられた」とはどう言う意味でしょうか。

聖書は偽りのない神の言葉です。使徒パウロによって記されたこの言葉は、使徒パウロの言葉ではなく、神が私たち人間に語っているメッセージです。

イエス・キリストは神の言葉なる方です。全世界の創造は神によってなされ、神の言葉によってなされ、キリストによってなされました(ヨハネ1章1節〜3節)。そしてキリストは、人となって私たちと同じように地上に住まわれたのです(ヨハネ1章14節)。

力強い完全な神が、弱い不完全な人のかたちをとられたのです。弱さのゆえに十字架につけられたのは、私たち人間の弱さと同じ弱さをキリストも体験されたということです。

弱いものが強いものの代わりをすることはできません。清くないものが、清いものの代わりをすることもできません。完全に強く聖なる神だけが、人間の弱さ醜さを肩代わりすることができるのです。

そしてキリストは、弱さを体験されたゆえに私たちを理解することができます。聖書はこう私たちに語っています:

私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に神の御座に近づこうではありませんか。

 キリストが弱さを全うされたのは、弱い私たちがキリストの中で力強く生きるためです。キリストは「弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力により生きておられます」。

それは、私たちの弱さ、醜さ、その他、罪によって生じたあらゆる汚れ、不甲斐なさをキリストの十字架で処分し、私たちがキリストのいのちを受けるためなのです。

あなたは弱い不完全な人間です。あなたにはキリストがいつも必要です。キリストと語らい、キリストとともに世の中を見、キリストとともに生きる必要があります。それは、あなたが神の力の中を生きるためです。

イエス・キリストはあなたの罪のために十字架につけられました。そしてあなたが活き活きと生きるために、死を滅ぼしてよみがえりました。

イエス・キリストを信じ受け入れてください。あなたがイエス・キリストと生きる事ができるようにお祈りします。
ラベル:聖書の神
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2009年02月06日

聖書の神E(どれほど神は世を愛したのか)

お早うございます。
モトイです。

 神は愛です。ですから、愛の根源は神です。

神がどれほどあなたを愛しているかを示す、有名な聖句がありますのでご紹介します(ヨハネ3章16節):

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。


 「そのひとり子」とはイエス・キリストのことです。世とはもちろん私たちの住んでいるこの世のことです。つまり、神はイエス・キリストを十字架上で処刑させられるほどに世を愛した、という意味になります。

イエス・キリストは神の御子そして、救い主である神です。その方が死んでも良しとされた、神が愛する世とはどういう世の中でしょうか。

世の中では人は様々な事でうめき声を上げています。経済的な苦しみや人間関係の問題、体や精神の病など、その苦しみの種類を挙げたら枚挙に暇がありません。

人が神から離れて罪を背負い込んでしまったがゆえに、世の中は罪に罪が重なり、罪深い人間の性質は時として人間である私たち自身でさえ目を覆うばかりになっています。

人が人を裏切り、憎み、心の中で殺し、自分も相手も滅びの穴に陥っている。それが人間の世の中です。

神が愛する世の中とは、そのような醜い世の中です。しかし神は、そんなこの世の中を愛しておられるのです。何故でしょうか。

人の罪のゆえに地は呪われたものとなりました(創世記3章17節)。人も神を誤解し避けるようになりました(創世記3章8節)。 
いま人は、まったく神を忘れてしまい、自分中心の生き方しかできなくなっています。しかし、聖書は人が神によって創られた存在であり、神のかたちに創られたと教えます。

私たちは呪われた地に住んでいますが、神に創られた存在です。神を忘れてしまいましたが、神は私たちを忘れていはいません。私たちは自分中心ですが、神はイエス・キリストを私たちのために死なせるほど、自己犠牲的です。

あなたは神に、いのちがけで愛を示されるほどに、愛すべき存在なのです。

あなたには価値があります。イエス・キリストが十字架上で、死をもって愛を示すほどの価値があります。

あなたはこの、神のあなたに対する猛烈なまでの愛情表現を受ける必要があるのです。なぜなら、あなたのうちにある愛は、神の似姿であるのに冷え切ってしまい、歪んでいるからです。あなたのうちにある愛は、神に触れたがっています。神に触れることであなたの愛はいのちを吹き返し、本来の愛の姿に戻れるのです。

イエス・キリストは神があなたに示してくださった愛そのものです。あなたがイエスを信じ受け入れれば、聖霊なる神があなたの内に住み、あなたを神の愛で満たすでしょう。

あなたが神を知り、神との交わりのすばらしい日々をはじめられるように、お祈りいたします。
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2009年02月05日

聖書の神D(神の愛・人の愛)

 聖書は人が神によって創られたことと、神の似姿に創られた事を教えます(創世記1章26節)。人が神に似ているとは、いったいどう言う事でしょうか。

 新約聖書の第一ヨハネの手紙には、「神は愛なり」という有名な言葉があります(4章16節)。神は愛の根源である方です。

では、愛とは何でしょうか。私はここで、哲学的なことを言おうとしているのではありません。愛とは対象となる人や物を愛するということです。つまり、愛には相手が必要なのです。

神は愛の方であるので、愛の対象として私やあなたを創られました。私たちは愛されている存在なのです。

では、神の似姿に創られた私たちの愛はどうなっているでしょう。

世の中を見れば分かることですが、人の愛は冷めて歪んでしまい、とても神の愛と言える愛の本質は保たれていません。

人の心には本来、神の愛が豊に降り注ぎ、その愛で人や物を愛し、自分を愛するのが人間本来の姿です。

しかし人は神から離れ、罪の中で生活し、冷めて歪んだ愛の中で愛を求めて苦しんでいます。愛が無いのが問題ではなく、愛が歪んでしまっているのが問題なのです。

人の心には、神でしか埋める事のできない穴が開いています。この穴から来る空虚感が人をかき立て、何かで埋めようと必死になってもがきます。

ある人は異性を求め、またある人はお金を求め、別の人は車や洋服や高価なブランド品などで空虚感を埋めようとします。しかしこの空虚感は、あなたが心の穴に神を迎え入れることでしか埋めることはできません。

神は愛であり、人は神の似姿です。あなたも私も、神を愛し人を愛することで初めて神の似姿である人間本来の姿にもどることができるのです。

あなたはすでに、神に愛されています。しかしあなたの内にある愛は、愛の方である神に触れるまで冷めて歪んだままです。あなたは神を受け入れる必要があります。

あなたは罪のゆえに神に近づくことはできません。神は聖なる方なので、どんな罪の汚れも神には受け入れることができないのです。

しかし神は愛の方です。あなたが神と和解するために、罪の無い聖なる方をあなたの身代わりにされました。それは、あなたのために十字架につかれたイエス・キリストです。

そしてキリストは、あなたが活き活きと生きるために、死を滅ぼしてよみがえりました。

あなたは、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れさえすれば、神と和解をすることができます。

イエス・キリストを信じ受け入れ、このかたを知る、神との交わりの人生をはじめてください。

神との日々の交わりはあなたのうちにある愛を強め、あなた自身とあなたの周りを力強く変化させます。神との交わりはあなたを日々、愛の姿、神の似姿に変えていきます。
ラベル:聖書の神
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聖書の神C

お早うございます。
モトイです。

聖書は生きた言葉です。人が聖書を読むときに何か疑問をいだいたり、不思議に感じたりする時は、聖書がその人に疑問を投げかけていることがあります。

 イエス・キリストは十字架につく直前、弟子たちの前で天の父なる神に祈りを捧げ、奇妙なことを口にしています:

(引用はじめ)
正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。(ヨハネ17章25節26節)
(引用終わり)

 イエス・キリストは地上にいる間、天の父の愛を説き、父なる神を人々に示しました。御名を知らせるとはそういうことです。

しかし、これからも知らせるとはどういう意味でしょうか。イエス・キリストはこれから十字架につくのです。自分もそう弟子たちに話していました。

聖書では、名前にその人の全人格や全存在を関連付けて扱うことが良くあります。つまりここでは、キリストが神を示し十字架についた後も、イエスの御霊とも呼ばれる聖霊なる神が、神の全人格、全存在を弟子たちに知らせ続けるという意味で「これからも知らせ」ると言っているのです。

全世界を創られた全知全能なる神は、その聖さにおいても、その能力においても、その知恵の深さにおいても無限なる方です。

無限なる方を知り尽くすことは、永遠に不可能です。つまりわたしたちは、神を知りまた、知り続けることにおいて永遠に神と交わりを深めていくのです。

このことは地上においても、天上の世界においても同じでしょう。私達は神を知り続け、その深い聖さに、その偉大な力に、その深遠なる知恵に、驚き続けることになります。

神を知ろうと志すものは、神を知れば知るほどますます神を愛するようになるでしょう。そしてもっと神を知りたいと思うようになるでしょう。

反対に、自分はすでに神を知っていると思うものは、残念ながら次の聖句が当てはまります:

人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。(第一コリント8章2節3節)


 もし本当に神がいるのなら、あなたは知りたいとは思いませんか。もし知りたいと思うのなら、その思いはあなたから出たのではなく、神から出た思いです。その思いに忠実になってください。

もしあなたがまだ神を知らず、知りたいと思うのなら、次の祈りを口にしてみてください。こんな簡単な祈りでも、主なる神は必ずあなたに答えてご自分を表してくださるでしょう。

「神様、私はあなたを知りません。しかし聖書の約束によって、イエス・キリストの名前で祈ります。私にあなたを教えてください。」


もしあなたが、この祈りを心から祈ったのなら、あなたは神を知るたびに出発したことになります。

あなたがイエス・キリストをあなたの神であり救い主として受け入れられるようにお祈りいたします。
ラベル:聖書の神
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2009年02月03日

聖書の神B

 一般に神とはどんなイメージがあるのでしょうか。日本では神罰が当たるとか、神隠しにあうとか何か怖いイメージが付きまといます。

もちろん聖書の神も、裁く神、燃える怒りを燃やす神、懲らしめる神です。

 聖書の神は罪を憎まれます。それは神が罪とはまったく関係のない、聖なるかただからです。

しかし人が最初に罪を犯したのには、悪魔による誘惑がありました(創世記3章)。悪魔は神に仕える天使であったのに、自分も神になることを決意し、神に追放されました(イザヤ書14章12節〜15節&エゼキエル書28章11節〜19節)。

ヘブル書の4章5節にこうあります:

私たちの大祭司(イエス・キリスト)は私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

 三位一体の神はそれぞれ役割があり、イエス・キリストは父なる神の愛を具体的に実行した方です。そしてこのかたは、私たちと同じように肉体での命を経験されたので、私たちの弱さを理解してくださいます。

私たち人は神から離れたことにより、罪の中でもがき苦しむ生活を送っています。罪に罪が重なり、世の中では社会構造が行き詰まり、家庭が崩壊し、倫理や道徳が退廃しています。

主イエスは世の終わりについて預言したときに、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」と言っています(マタイ24章12節)。

いまはまさに、人々の愛が冷える世の終わりの時期です。そしてキリストは、先の言葉に続けてこうも言っています、「しかし最後まで耐え忍ぶものは救われる」(マタイ24章13節)。

いったい私たちは何により頼んで愛を保ち続けるのでしょうか。私たちは罪のゆえにもがき、私たちも罪を犯します。私たちの愛はゆがんでしまって傷ついています。

ではいったい何によって耐え忍ぶのでしょうか。キリストはどういうおつもりだったのでしょうか。

聖書に対する疑問は、聖書が必ず答えてくれています。ヘブル書の12章2節3節にこうあります:

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪びとたちのこのような犯行を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなた方の心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。


 私たちが不法のはびこる中で「元気を失い、疲れ果ててしまわないため」に、イエス・キリストのことを考えなさいと、聖書は教えます。

イエス・キリストはあなたの罪のために十字架に架かり死にました。しかしそれで終わりではなく、あなたが活き活きと生きるために、死を滅ぼして復活し、いまは天の御座につかれています。

世の中のだれが、罪びとのために死んでくれるでしょうか。神であるキリストを置いて他にはいません。ここに愛が示されているのです。

あなたはこの、力強いキリストの愛に招かれているのです。あなたは愛されています。それは、あなたには価値があるからです。

あなたは神の被造物であり、神にとってあなたは「高価で尊い」存在です(イザヤ43章4節)。

キリストの愛を受け取ってください。それはすぐそこにあります。

あなたはただ、「神さま私はイエス様を信じます」と告白すればいいのです。

そして、イエスを知ってください。

あなたがイエスを知り続ける、力強いキリストの愛の生活を送るようにお祈りいたします。
ラベル:聖書の神
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