2011年02月25日

耳垢の痒みと心の癒し

お早うございます。
モトイです。

 私の飼い猫のモーシェ君がある時、後ろ足で耳の中をかこうと繰り返し引っ掻いていました。気になったので捕まえて耳の中をのぞくと茶色いヌメッとした耳垢が溜まっていました。すぐにその場にあったタオルで拭い去ってやろうとすると、はじめは嫌がって抵抗しました。しかし脅かさないように耳の周りから拭いてやり、徐々に耳の中をきれいにしてやると気持ちよさそうにしています。

次第にモーシェ君は耳掃除の意味が分ったようで、ついにはおとなしく寝そべって私に耳を委ねました。サービス精神の旺盛な私は、もっと奥まで綺麗にしてあげようと、麺棒で丁寧に耳をかいてやりました。

今ではモーシェ君が耳をかく前に、定期的に私が麺棒で耳垢の掃除をしてやります。

考えてみれば、麺棒とは言え耳に異物を入れられるのは恐い話です。信頼関係が出来ていなければ恐ろしくて逃げ出してしまうでしょう。しかし信頼関係があればそれは気持ちの良いものです。時として痛痒いこともあるでしょうが、愛情を持って接していれば猫でも身を委ねてくれます。

モーシェ君が耳をかいていることに私が気が付かずに、耳を掃除してあげなかったら、きっと耳はさらに痒くなっていたでしょう。それでも猫は生きているでしょうが、痒いより痒くない方がやっぱり良いのだと思います。

人間の心の癒しもこんなものだと思います。偉大な癒し主である神に身を委ね、心の傷や痛みを拭い去るのには、はじめは恐れが生じます。神を信頼できないからです。そして心の傷や痛みの存在を意識することは時として辛いことです。しかし意識しないでいると感情が自分を支配し、知らぬ間にある行動パターンで自分や他人を傷つけてしまいます。それは耳が痒くて後ろ足で耳をほじくろうと無意識にもがく猫のようなものです。もがきますが耳垢は取れません。取れないので耳垢の痒みは常に存在し続けます。そして耳を後ろ足で書くのがいつの間にか当たり前になり、ついには習慣になってしまうのです。

耳垢の問題ならまだこのくらいで済むでしょう。しかしそれが癒される必要のある心の傷である場合は、無意識のうちに取ってしまう行動の影響がもっと大きくなるでしょう。例えばそれが、「自分が無価値だと思うので必死に努力して愛を勝ち取ろうとする心の傷」だったり、「尊厳を汚されたくないので汚される前に人を遠ざけてしまう傷付けられた自尊心」だったりする場合、癒されない傷はその人を感情面でも支配して、行動パターンを形成してしまうでしょう。時として人はそれを自分の性格だと思ってしまいますが、実は癒されなければならない問題が心の奥底で叫び声をあげている場合が多いのです。

自己啓発セミナーや心理療法ではこの場合、自分の行動パターンから心の傷に気付くことを促します。そしてその傷の原因の背景を掘り下げ、別の行動パターンが生み出せるような意識付けをします。

例えばいつも不安を抱えている神経質な人が、その原因が自分の無価値観だったと発見します。その背景をさらに掘り下げると、両親がいつも喧嘩していたことが分り、そのために自分は無視され無価値観を抱き、両親の喧嘩に対しても責任を感じていたことが分ったとします。通常この気付きはかなり感情的な痛みをもたらすようです。しかし気付くことで癒しが始まると、自己啓発セミナーでは教えています。

そんな彼の行動パターンを変えるため、アファメーションと呼ばれる積極的なキーワードを自分に言い聞かせることもします。それは例えば「私は人に愛されている」とか「ありのままの私は魅力的です」などといった言葉です。

確かにこのような過程を踏めば人の心は癒しへと向かうのだと思います。しかし根本的な罪の赦しの問題は解決されないままで残ります。この罪の赦しの問題は、自分がまず赦された経験を持たないと解決しません。それゆえにその人の癒しは不十分にしか進まず、両親や自分を赦せない自我がいつまでもその人を支配し続けます。

この赦しは神である救い主、イエス・キリストだけが人に提供することのできるものです。そしてこの赦しを受け取った人は、心に神の領域が拡大する経験をし始めます。この罪の赦しによる神の領域の拡大が人を完全な癒しへと導きます。

聖書に登場するバプテスマのヨハネという人物はキリストについて評して「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない(ヨハネ3章30節)」と述べました。この言葉は人の心の癒しや成長についても言えます。すなわち私たちの心の領域の中で自我がキリストに明け渡され、キリストがそこに拡大する時にその人は癒しを受け成長していくのです。

あなたは今、ひょっとしたらまだ感情に支配されているかも知れません。自分の感情が起こす行動パターンを自分の性格だと諦め、自分も他人も傷付けて生きているかも知れません。あるいは反対に、その行動パターンが常に人から傷を受けるようにあなたを動かせているかも知れません。しかしそれは本来のあなたではありません。

あなたは神にとって重要な人、かけがえのない宝なのです。それゆえに神の子であるイエス・キリストは、あなたの受けるべき罰を十字架上で背負われました。そればかりか彼は、あなたが地上で活き活きと過ごすために死後三日の後によみがえり、永遠のいのちをあなたのために用意しています。

キリストがあなたのために命がけで愛を示したのは、あなたの心が罪の赦しを受け取って癒されるためです。

イエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも心に神の領域を拡大させる日々を味わって下さい。

あなたがキリスト者なら今日もこの方との深い交わりを体験し、心の領域をさらに主イエスに明け渡しましょう。癒しも力も奇跡も約束も、すべてあなたが受け取るべき神からのプレゼントです。この方を信頼し、心を明け渡しましょう。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。どんなこの世の知恵や知識も及ばぬ神のわざを、どうぞあなたの心に招き入れてください。






神と人の本当の関係.WAV




 (「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html








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2011年02月17日

聖書の癒し21(つづき)

お早うございます。
モトイです。

 昨日の続きです。少し前から続けます。

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母がストレスから私を責める時はたいてい理不尽なことを言っていました。自分も同じことをしているのに怒りに任せて私を責めるのが、そんな時の母の行動パターンでした。それゆえに私は母を口でやりこめようと、幼いながらも必死で戦っていました。しかしある時とった「お茶らけ戦法」が功を奏し、母は自分の非を笑いながらあっさり認めたのでした。

このことは私の行動パターンのひな型になっていたようです。セミナー流に言えば、「自分は嫌われているけれどもお茶らけて相手の痛痒い所をくすぐれば受け入れられる」と心の中にプログラミングされていたのです。つまり、「私は嫌われている」というプログラミングと、「私はお茶らけることで人気者になる」というプログラミングが、私のコンフォートゾーンを作っていたのです。

このことに気付いた時私の中に母親に対する怒りが猛然と湧きあがって来ました。この怒りは今までずっと心の奥底にあったものです。しかし私が母親に「愛されたい」と思うあまりに押さえつけられていた感情です。

この怒りの感情はしばらく私を悩ませました。聖書では怒りは殺人と同じ重さで語られているからです。(しかし同時にそのような罪のためにキリストの十字架の犠牲があるとも教えています。)

私の手に負えないこの怒りを祈りの中で神に打ち明けるうちに、聖書の次の聖句を示されました。そして同じ個所をほとんど同じ時期に教会のメッセージの中で牧師の口から聞かされました。聖書的な解釈ではつまり、私にとってこの聖句は「ふたり、三人の証言」によって神から与えられた、私個人に対する神の言葉と判断することが出来ました。示された言葉は申命記8章2節3節ですが、下記に新約聖書の教えを含めて要約してご紹介します:

人はこの世の中という荒野で様々な体験をします。それは神に対する反逆だったり、不信仰だったり、人に対するつぶやきによって神が備えた環境をないがしろにする行為だったりします。それらの事を神が赦したのは、私たち人間が神を見出し、神の民が自分の心のうちにどんな傷や痛みを持っているのかを知るためなのです。そしてさらに言えば、どんな汚れや罪を心に持っているのかを、その人が神とともに見るためです。
神の民にとってこの世で様々な体験をする事は訓練です。そして神を知らない人々にとってはその同じ体験は神を見いだすための神からのメッセージです。全ての人にとっては、神とともに自分の心を見る事が気付きなのです。この気付きによって人は神と交わり、神の言葉を食べ、神によって癒され成長する事が出来ます。


そして申命記8章16節にはこの世の出来事で私たちが悩むのは、「ついにはしあわせになるため」の神の計らいであると教えています。

この聖句を神によって示された私は、自分の中によみがえった母に対する怒りを「見る」ことを始めました。それは大変な意識転換でしたが、怒りが私を幸せに導くための私の心の叫びであるということが分ったので、以前よりも気が楽になりました。そして示された内容が以前ご紹介した母と父のそれぞれの幼いころの家庭環境についてでした。

(以前の記事は「聖書の癒し3」http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/115126952.html?1236140530

このことは第一段階の気付きでした。母と父がそれぞれ傷を持って育ち、お互い自分と似たような傷を持つ相手に引きつけ合って結婚したことは、その息子である私にはとても驚くことでした。そしてこの気付きによって私は、自分の父も母も心に傷を持つ神から離れてしまった罪人なのだと理解することが出来ました。

この第一段階の気付きは、私の心にかつてあった父に対する愛情と尊敬の念を思い起こさせました。父に関する私の感情はこの時に癒されたと信じています。残念ながら父はすでに他界していますが、今も生きていたらもっと親しくなっていたと思います。

そして第二段階の気付きが来ました。それは母に対するものでした。祈りの生活の中で私が示されたことは、母が私をかまうことが出来ないほどのストレスを帯びていたことでした。このことは通常ならば母親の怠慢などとして取り扱われるべき事柄でしたが、私にはそれは世の終わりの不条理として受け取れました。

このことに気付いた私の反応を一言で表現すれば「な〜んだ」という言葉になります。この気付きによって私が抱いていた母に対する怒りは、私の中に存在する正当な理由を失いました。思い出して怒ることが極端に少なくなったことは、私の中の母から受けたこの傷の癒しが成し遂げられた証明なのだと思っています。

この怒りがよみがえって以来、私は母に不当に扱われたことを思い出しては心に怒りを抱いていました。時として私は怒りに支配されることもありましたが、心の現象も全て神のメッセージとして受け取り、それを見つめていました。数年間の長い戦いでした。

私が心の傷を癒されても、母親は全く変わっていません。彼女は彼女の行動原理で今も動いています。したがって時として今も母は私の古傷に触れるような言動をします。しかし私の行動原理が癒しを受けたので、以前のように私がわざわざ相手の痛いところを突くことを言ったり、無理におどけてみたりすることもありません。

前回説明したように、ビジネスセミナーではこのような行動原理を「コンフォートゾーン」を中心に説明していました。したがって自分のイメージを高く設定することによってコンフォートゾーンを高くし、自動的に成功者となるような行動が出来るようにしましょう、と教えていました。自己イメージを高く設定することによる行動改革です。

しかし聖書の癒しは神との対話が基本です。自己イメージを高く設定することはとても重要なことですが、それでは根本的な心の癒しが成し遂げられません。ここが決定的に違うところです。

私たち人間は神との関係を失ってしまいました。このことがすべての問題の根本です。この神との断絶を聖書は「罪」と呼んでいます。この根本的な罪が世界中のあらゆる罪を生み、人々は怒りや悲しみの中で生活しています。私たちの心の根本的な癒しは、まず神とつながることから始まるのです。

あなたもイエス・キリストを信じ受け入れ、神との交わりのある生活をはじめて下さい。

あなたがキリスト者なら、今日もこの方との祈りの生活を送りましょう。この方こそ私たちの癒し主、私たちの砦です。イエス・キリストを喜びつつ歩みましょう。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方とのつながりがすべての問題の解決の第一歩です。






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2011年02月16日

聖書の癒し21「人を支配する心の傷の癒し」

お早うございます。
モトイです。

 先日、とあるビジネスセミナーに参加したところ、自己イメージが低いためにチャンスを逃した実際の話を、セミナー参加者の体験として聞くことが出来ました。

その方はかつて原因不明の皮膚病で余命いくばくも無く入院していました。それを一念発起して自分の全身写真を写真館でプロに撮ってもらい、「いずれ全快した時にもう一度撮りに来ます」と言って帰った数ヵ月後に本当に全快して健康な全身写真を撮ったという方でした。全快した後にはこの二つの写真をもとに本を書こうと思いついた、そのアイデアが希望となって彼の体を強めたのでした。

ところが昨年、本を書くための勉強だと思って参加したビジネスセミナーでせっかくのチャンスを逃してしまいました。そこで出会ったフリーライターの方が「私が編集しましょうか」と申し出てくれたにもかかわらず、彼は怖くなってつい断ってしまったのだそうです。

彼は先日のセミナーで自分が「幸福を取り逃がすクセ」を持っていることに気付き、参加者の前でそのことを語ってくれたのでした。セミナーの講師はそれを「自分のコンフォートゾーンに戻った結果」であると表現しました。

講師によると人にはそれぞれコンフォートゾーン(心地よい領域)があり、その領域は自己イメージによって造られているのだそうです。例えば「私なんかはこんなもの」と、今いる環境を良くも悪くも受け入れてしまえばそれが「コンフォートゾーン」となり、それ以上の環境に上がることが出来るチャンスを自分で潰してしまうのだそうです。

せっかく心の持ち方によって死病をも克服したその男性は、自分の深層意識の強烈な引き戻しに遭ってしまったようです。

彼はかつてはひきこもりで鬱状態だったのだそうです。一連のセミナーを通して彼が学んだことは、「自分の心が病気と死を受け入れてしまい、せっかく希望を持って立ちあり、チャンスまで目の前に来たのに、寸でのところで自己イメージが働いて取り逃がしてしまった」ということでした。コンフォートゾーンが低ければ現状より自分を下げる働きをし、チャンスさえも自分で気付かぬうちにごく自然に逃してしまうのです。

同じようなことは私自身にもありました。私は幼いころからよく周りの人に「一言多いい」と言われていました。自分では何の事だか分りませんでした。(分ったのはキリスト者となって祈りの生活を知って後のことです。)自分では分らないのについつい毒舌を吐いて人を傷付けていました。周りは笑ってくれるので、自分では「お笑い系の人気者」だと思っていました。でも笑い者にされた当人からは知らぬ間に恨みを買っていたようです。

この性格はキリスト者になってからも続いていましたが、ある時変化が訪れました。それは神学校の先輩に対していつものように軽口をたたいていたところ、彼が「それは失礼だな」と真面目に私に言ったことによります。

私としては親しみを現すための軽口であったことが「失礼」だと言われたのです。とても大きな衝撃でした。しかし同時にそれは誤解などでは無く、本当のことだとも直感しました。この直感は私のうちに宿られる聖霊なる神の語りかけであると今では信じています。その先輩の私に対する悪意のない指摘に今も感謝をしています。

しかしキリストを知る以前の私なら、「失礼だ」と言われればきっと、二つ反応のどちらかをしたでしょう。一つは逆切れして相手をやり込めること。もう一つはとりあえず謝って心の中で相手を軽蔑し、実際にその人物とのかかわりを持たなくなることです。どちらも私から人を遠ざけるように働く行動です。しかしこの時の私は素直に謝り、自分自身の内面を見つめて祈る心がありました。

先日参加したビジネスセミナーの講師ならこの時の状態を「どうせ自分は嫌われている」というコンフォートゾーンが働いた、と説明するでしょう。実際その通りです。しかし私が祈りの生活において示されたことはもっと具体的でした。

この示しは「気付き」という形でやって来ました。私が祈りの中で「なぜ失礼なことを言う癖があったのか」と、自分の全ての過去を神に捧げていると、母親の私を見つめる憎々しい顔が思い浮かびました。その顔は私が忘れていた記憶で、実際に幼いころに何度も目撃していた顔でした。それと同時に私が母親に対して媚びへつらうようにおどけると、途端に母が楽しそうに笑った光景も思い浮かびました。

このころの母は父との問題があり大変なストレスでほとんどヒステリー状態になっていました。それは男女の間ではよくある行き違いなのだと思います。しかし母はそのストレスを私に向けました。少なくとも私には本気で母が私を憎んでいるように思えました。

私は母親に嫌われていると思い、彼女のストレスのはけ口にされた時にはよく口げんかで対抗していました。後に母は私に、「あの時のあんたは本当に憎かった」と本当に憎々しげに何度も言っていました。しかしそのことさえも私はすっかり忘れていました。祈りはそれを思い出させたのです。

祈りの中で示されたことは実際に起こったことでした。母親が私を何かのことで責めたのを、いつもなら本気でやり返して母を責め立てていたところを、お茶らけてやり返したら意に反して上手く行ったのです。

母がストレスから私を責める時はたいてい理不尽なことを言っていました。自分も同じことをしているのに怒りに任せて私を責めるのが、そんな時の母の行動パターンでした。それゆえに私は母を口でやりこめようと、幼いながらも必死で戦っていました。しかしある時とった「お茶らけ戦法」が功を奏し、母は自分の非を笑いながらあっさり認めたのです。

このことは私の行動パターンのひな型になっていたようです。セミナー流に言えば、「自分は嫌われているけれどもお茶らけて相手の痛痒い所をくすぐれば受け入れられる」と心の中にプログラミングされていたのです。つまり、「私は嫌われている」というプログラミングと、「私はお茶らけることで人気者になる」というプログラミングが、私のコンフォートゾーンを作っていたのです。

このことに気付いた時私の中に母親に対する怒りが猛然と湧きあがって来ました。この怒りは今までずっと心の奥底にあったものです。しかし私が母親に「愛されたい」と思うあまりに押さえつけられていた感情です。

この怒りの感情はしばらく私を悩ませました。聖書では怒りは殺人と同じ重さで語られているからです。(しかし同時にそのような罪のためにキリストの十字架の犠牲があるとも教えています。)


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少し長くなってしまいましたので、続きは明日にいたします。






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2011年02月02日

聖書の癒し20「もっと知ればもっと愛せる」:作家石川淳に親しみを感じた理由

お早うございます。
モトイです。

 新約聖書のコリント人への手紙第一には、人が自分勝手に何事も決めつけて裁いてしまうことを戒めて「主(キリスト)が来られるまでは、何事についても、先走った裁きをしてはいけません」と教えています(4章5節)。この言葉はどれほど私たち人間が「先走った」裁きをしてしまうかを示しています。

同じ書簡は後に「私たちの知っているところは一部分」だけでしか無いとも警告しています(同13章9節)。部分的にしか知らないのに、人はよく他人に怒りを覚えたり裁いたりします。しかし少しでも相手を知ったら状況は変わるのではないでしょうか。

冒頭からこのようなことを述べたのは、私自身が最近ある作家をネットで少し知ったことによって、大きな親しみを感じた経験をしたからです。

その作家とは石川淳です。彼は太宰治などとともに無頼派の作家と呼ばれているそうです。wikiペディアによると戦前は旧制高等学校や大学などで講師をしていたとのことです。

その石川淳が大学の入試の監督官をしていた時の話です。その時の論文の試験のタイトルは「新聞紙」でした。この課題に対して、文系志望の受験者たちはみなジャーナリズムとしての紙媒体である新聞紙を論じ、理系の志願者たちは新聞に使われている紙について論じたそうです。この色分けが余りにもくっきりしていたので石川氏はとても戸惑ったと、後にエッセイで告白したほどでした。

ところがそのエッセイを読んだ作家の花田清輝は、実はその時自分はその受験者のひとりであったと別の文章で告白したそうです。wikiペディアには花田がどんな風に「新聞紙」を論じたのかは書いてありませんでしたが、このことを読んで私は人のつながりが歴史の時間の上でつながった感じがしてとても面白いと思いました。

私は石川淳も花田清輝もほとんど知りません。しかしたった4・5行のwikiペディアの文章が、このふたりに対する親しみを湧きあがらせました。文学史上の登場人物ではなく、生きている人と人のつながりが時間と空間の中で見えた時、私の中にも彼ら二人が生きた生身の人間として伝わって来ました。

この話とは別に、小林秀雄と言う作家がいます。私にとって彼は国語の教科書や試験問題に登場するだけの作家で、成績の悪かった私には当然悪いイメージしかありません。小林秀雄本人には、恐らく、非は無いのでしょうが、とても悪いイメージを私は抱いています。最悪です。でもひょっとしたら、私が小林秀雄のことをもう少し知るのならば、彼に対するイメージも好転するのかも知れません。でも特にその必要も感じないので、私の中では小林秀雄は悪いイメージのままです。

これが作家に対する私の評価であるので、社会通念上も公序良俗の上でも特に問題はありません。しかし人はこのようなことを身近な人に対してもしてしまうものです。もう少しだけその人を知れば、もっとその人への親しみが湧くでしょう。逆に部分的に知っていることだけでその人を判断してしまえば、それはその人に対する裁きとなってしまいます。冒頭に引用した聖書個所が教えるように、すべてを知っている神の訪れの前に何事かを裁いてしまわない方が私たち自身のためにもなります。

神の訪れとはいつのことでしょうか。聖書には人は死ぬことと死後の裁きを神から受けることが定まっていると書いてありますが、そんなに先まで神の訪れを先延ばしにしてはいけません。救い主である神、イエス・キリストを知ることは、無限の愛の方を知ることです。この方を知れば知るほど、人はいのちを受け取ることになります。だから私たちは今日と言う日の中で神の訪れを期待するべきなのです。

あなたはひょっとしたら今、自分が知っている部分的な知識のゆえに人を裁いたり、あるいは逆に人から裁かれる立場に立っているかもしれません。しかし今日と言う日に神の訪れを求めるのなら、全知全能の神があなたの心の怒りを鎮め、あなたの傷付いた心を癒して下さいます。

あなたが信じるのなら、今日と言う日があなたにとって神の訪れの日となります。イエス・キリストを心にお招きし、無限の愛と豊かないのちを今日受け取って下さい。

あなたがキリスト者なら、今日と言う日をこの方との礼拝として捧げましょう。何をするのにも神とともにあるのならば、今ある問題は必ず愛といのちによって良い方角に向かいます。

あなたがまだこの方との関係をもたないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることをお勧めします。あなたのことを全て知っている方に人生を委ね、無限の愛といのちの中で癒しと活力を受け取って下さい。






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2010年10月05日

聖書の癒し19「古い杭(くい)が生む不安」

お早うございます。
モトイです。

 先日、大手のゼネコンの下請けをしている解体専門の会社に勤めるおじさんから、解体工事に関する興味深い話を聞きました。

おじさんがいま関わっているのは発電プラントの建て替えだそうです。もうすでに3〜4年はその現場で仕事をしているとのことでした。とはいってもまだ解体工事のまっ最中とのこと。おじさんの会社の役目は、何十本も地中深くに打ち込まれた基礎の杭を抜き取ることなのだそうです。

ところがこの杭は本当は抜き取る必要が全くないのだそうです。この杭を抜き取るだけでも何十億円もかかり、現時点でもすでに3・4年もかけて作業をしています。しかし杭自体には傷も損傷も全くないのです。しかし電力会社の依頼によってこの作業は進められ、依頼主である彼らも杭がまだ使えることは知っているのだそうです。

時間もお金もかかるのになぜ杭を抜き取りたいのでしょうか。その答えは実に単純です。そしてその考え方は、聖書的な心の癒しと図らずも一致するものがあります。その答えは「不安だから」です。

おじさんの話だと、「もし地震や災害で何かがあった時、古い杭が原因だったらどうするの」と言うことなのだそうです。そんな災害が来た時には当然新しい杭でも持ちこたえられないのでしょうが、古い杭だと不安であるためにとにかく取り換えるのだそうです。

私たちの心の中にも沢山の不安を生み出す古い杭があります。その杭の一つ一つには「他人の目」だとか、「人よりも上に立つこと」などといった名前が付いています。人によっては「これではまだ不十分・・・」とか「もう少しがんばらねば・・・」あるいは「どうせ私なんか・・・」や「いつも失敗する」と言った杭を持っているかもしれません。このような杭は、私たちが幼いころから心に植え付けられたものです。そしてそれは自分を律するための杭であったかも知れませんが、多くの場合私たちを縛りつけるものでした。

聖書にはイエス・キリストを信じ受け入れた人は、その瞬間からその人のすべてが新しくなったという宣言があります(第二コリント5章17節)。これは古い杭を一挙に抜き去り、心の中にイエス・キリストという新しい杭(土台)を迎え入れる行為です(第一コリント3章11節)。

しかし私たちの心には古い杭の残した穴が開いています。この古い杭の穴はかなり深いので、あたかもまだ杭が残っているように錯覚するほどです。そこでキリスト者になっても新しい土台であるキリストに注目せずにこの杭の穴にばかり注目すれば、かつての基準がよみがえり、杭のあった穴が私たちを不安に陥れることになります。魂の敵であるサタンも、私たちがキリストに注目するよりも古い基準に注目するように仕向けます。そのようなことを避けるためにも、この穴は聖書の言葉によって塞がれなければならないのです。

解体業者のおじさんは「建物を建てるのにも時間はかかるけれど、壊すのにも同じくらい時間はかかるものだ」と言っていました。人間の技術ではどうしてもそうなのでしょう。同じく人間の技術である自己啓発や心理カウンセリングでも、心にすでに築かれてしまった古い建物を壊すのは大変なことのようです。

自己啓発セミナーや心理カウンセリングなどでは、この杭を時間をかけて抜き去ろうとしたり、新しくポジティブな自己イメージの杭を沢山打ち込もうと努力したりします。それは時として役に立つやり方ですが、とても時間のかかる大工事になってしまいます。その結果大変なお金と時間をかけて、結局は途中であきらめて自己改革を放棄してしまう人々も出るほどです。

しかし聖書的な心の癒しは神のなさる仕事です。そのやり方は人間の知恵をはるかに凌駕します。その神の知恵の凝縮された聖書は次のように語ります(第二コリント5章17節):

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。


 また次のようにも語ります(ガラテヤ書5章1節):

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。


 キリストも黙示録3章11節で、持っているものを奪われないようにしっかりと持てと警告しています。

神の言葉は真実です。そしてこの言葉には力があります。その力は私たちの心にうち込められた沢山の杭を、一瞬にして抜き取ってしまうほどの力です。

あなたが本当のあなたらしさを回復するためには、イエス・キリストによってまったく新しくされる必要があります。イエス・キリストはあなたの心にある古い杭を抜き去り、空いた穴を神の言葉で塞いでくださる方です。この方につながり、この方に感動し続けることが、人を本来あるべき活き活きとした姿に戻します。

あなたもこの方を心に受け入れてください。

あなたがキリスト者なら、今日と言う日をイエス・キリストへの感動で満たして下さい。古い杭のあった穴ではなく、キリストに注目しキリストに感動することによって、神ご自身にあなたの心の穴を塞いでもらいましょう。主イエスを喜ぶことは私たちの力です。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。人の知恵では人は変われません。あなたを最もあなたらしく回復できる方、イエス・キリストにあなた自身を委ねてください。








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2010年08月04日

自滅のFワード

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんに神の祝福がありますように。

 以前私は外国人英語教師(ALT=Associate Language Teacher)の派遣コーディネーターをしていたことがあります。小中学校に英語教師の補助としてALTを送る仕事です。その時に接していたALTに、よくFワードを使うアメリカ人がひとりいました。Fワードというのはいまでは日本でも映画やテレビで聞き慣れてしまった汚い言葉ですが、本当はアメリカの良家では家の中で発音することさえ忌み嫌われる、下品な単語の一つです。(もう少し具体的に言うと、Fから始まる4文字の単語です。)

当然そんな単語は砕けたビジネスの場でも使われません。使うと品性を疑われるからです。そして特に私とそのALTのような、会社の中での上下関係の中では使われるべき単語ではありません。ところがあることで怒った彼は私に対してメールでFワードを使った言葉を送って来ました。

実はそのきっかけは私のミスでした。派遣している外国人教師たちの休日を確認していた際に、彼の休みを間違えて私が伝えたことが原因でした。しかしたとえ私の間違いだったとしても、常識としての言葉使いから逸脱したFワードは礼儀に反しています。

こんな時にほかの人ならきっと怒りだすか萎縮してしまうかのどちらかでしょう。でも私にはある聖書的な確信があったので、彼に対して丁寧に接することにしました。私の確信とは、このように人をわざと怒らせようとしたり傷付けようとしたりする人は、自分の内面の傷や痛みが外に出ていることが原因で、きっかけは私でなくともなんでも良いのだ、ということです。もしここで私が彼と同じレベルに下がって喧嘩をしたり逆に怯えたりするならば、彼の汚れが私にも影響してしまうことになります。

新約聖書のヘブル人への手紙にはそのことを次のように述べています(12章14節〜16節):

すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主(神)を見ることができません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。


この聖句にあるように私は彼の汚れに同調しないように、努めて紳士的に対応しました。私は自分の勘違いを謝罪し、調べてみて彼が正しかったことと、彼の正確な休日とを伝えました。そして私に対してFワードを使うことはビジネスの慣行上正しくないこと、それと学校教育に携わる者としても相応しくないこととを伝えました。すると彼はあわてて自分の失礼な言葉を謝罪しましたが、この聖句にあるように自分の内側を見つめ直すことはしませんでした。その代り彼は自分の暴言が二日酔いのためだと、愚にもつかない言い訳をしました。

私の見たところ彼はあちこちで自分の内面の苦い芽を出して周りを汚していたようです。もし彼がその原因を他人などの自分の外側に求めずに、内側に向けてよく自分を監督することが出来たのなら、彼のその後はいくぶん変わっていたことでしょう。しかし彼はそれをついにすることはありませんでした。そして彼はいつも自分の外側の世界に、内にある汚れをまき散らしていました。理由は何でもよかったのです。結局彼はお酒で仕事をさぼったりすることが続き、会社からは解雇されてしまいました。自分の内側にあった汚れが自分自身を破滅に追いやってしまったのです。

私たちの周りにはこのような人たちは沢山います。おそらく多くの人が彼のような人に思い当たるでしょう。中には自分の内面にこのような傷や汚れがあることを知って、自己啓発セミナーや瞑想訓練などをして自分自身を見つめている人々もいることでしょう。しかしそのような努力では自分を本当に変えることはできないでしょう。私たちはそれほど深い傷を持った、そして罪深い存在なのです。

聖書はそれゆえに罪の赦しを受け取ることを自己改革の出発点にしています。人は本来傷の無い存在として、神の似姿に創られたと聖書は語ります。しかし神に背いたことによって人の中に罪が入りました。この罪が自分も他人も傷付けているのです。この罪の問題の解決なしにどんなに自己鍛錬したとしても、結局自分を変えることはできません。

世の中の多くの人々は私の出会ったALTのように全てを他人のせいにして、自分の内側の汚れを外側にまき散らしています。そのような人々は、汚い言葉を使わせる理由は周りの人々にあり、自分はその人々の犠牲者であると思い込んでいます。しかし彼らの思いはいずれ自分の汚れとして返って来てしまいます。

私たちには今日、イエス・キリストの救いが必要です。それは死んでから天国に入るためではなく、いまの自分に神の赦しが必要だからです。この赦しを心の中の隅々にまで行き渡らせることによってのみ、私たちは変えられることができるのです。

決して自分の努力ではありません。かと言って他力本願な訳でもありません。私たちのが努力をするとしたら、イエス・キリストによって神と和解をした後に、神の光を心の中に行き渡らせる努力をするのです。それには神とともに過ごす時間を持つことです。この時間が無いために人々は自分のうちにある暗闇を見ることができずに、全ての問題の責任を周りに求めてしまいます。それは自滅の行為です。

私たちには今日、イエス・キリストの光が必要なのです。

あなたもイエス・キリストによって神と和解をし、神の光による癒しと変革を受け取って下さい。

あなたがキリスト者なら今日も神との時間を保ち、神によって自分を新しくしてもらいましょう。イエス・キリストが私たちの全ての問題の答えです。この方との交わりの時を守り続けましょう。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受けりれることを強くお勧めします。この方以外に救いはありません。まずしなければならないことをいつまでも先延ばしにせずに、今日という日に神と和解をして下さい。









神と人の本当の関係.WAV




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2010年06月18日

聖書の癒し18「傷が傷を癒す」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんが神の愛を受けますように。

 関西のAMラジオ番組の「聖書と福音」の中で、とても深い聖書の癒しの証しを聞き感動しました。その話を私なりの解説を加えてご紹介します。

この「聖書と福音」はインターネットでも公開されていて、Podcastで聞くことができます。たった15分の短い番組ですが、いつも聞くと励まされて元気になります。聖書を読んだことがある人にも無い人にもお勧めの良い番組です
(聖書と福音http://www.biblegospel.org/

 番組のメッセンジャーの一人の高原剛一朗氏は去年奥様を癌で失ったのだそうです。番組ではその前後のことをたびたび話していました。その話を聞いて感動したリスナーが、高原氏に電話をかけてきたそうです。

実はこのリスナーの方は、自分の娘を自殺と云う悲しい形で失った父親でした。高原氏は話を聞きながら、なんと慰めてよいのかも分らず、ただ二人して電話で泣いていたそうです。

リスナーは高原氏が奥さんを亡くした話に感動し、娘のことの癒しを受けたと言います。そして同じことが高原氏にも起こったのだそうです。

この電話の後、高原氏は何とも言えぬ爽快感に包まれたと言います。電話で娘を失った父親が高原氏の話を聞いて励まされ、高原氏はその方の娘を失った話を聞いて癒され励まされました。高原氏はこれを「傷が傷を癒す不思議な現象」と述べ、旧約聖書のイザヤ書53章5節の以下の聖句を引用して説明しています:

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎《とが》のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。


 これはイエス・キリストの十字架について預言している旧約聖書の個所です。イエス・キリストが私たち人類の罪の処罰を全て引き受けたことはこのブログで何度も述べている通りです。この赦しを受け取るか受け取らないかは、私たち人間の側の自由意思にかかっています。

そしてこの聖句は、キリストの救いを受け取った者が、キリストの受けた傷によって癒されたと教えています。キリスト者はキリストの傷を思うことによって感動し、癒しを受け取るのです。高原氏が「傷が傷を癒す」と説明したのはこのことです。

高原氏も自分の妻を失い、落胆の中でキリストに慰めを受けました。そしてその話を聞いたその父親も、自分の娘を失った傷を、高原氏が受けた傷のいやしによって癒されたのです。

同じようなことは世間一般でも時々目にします。たとえばことわざに、「同病相哀れむ」とか、「傷をなめ合う」などという表現があります。傷を持つ者は傷を持つ者同士でお互いの気持ちが分るのでしょう。

しかし所詮は人間の傷はなめあって同情し合うレベルの慰めしか与えません。その証拠にこの二つのことわざはあまり良い意味では使われません。返って弱い者同士同情し合うと言った、ネガティブな意味で使われることが多いです。

しかしイエス・キリストの傷には癒しの力があります。それはイエスが傷を受け十字架上で死ぬために地上に送られた、神の独り児であり、救い主である神だからです。

キリストの受けた傷には癒しの力があります。もし今あなたが心の傷の痛みに苦しんでいるのなら、イエス・キリストの受けた傷について思いを馳せるべきです。

私たちが心に傷を受けてしまうのには様々な理由があります。あるものは幼いころに親兄弟から、また別の傷は十分強くなったと思えた大人になってから受けるでしょう。その傷ごとに理由や原因があるはずです。しかし理由や原因を探し出しそれを指摘し続けても傷はいやされません。傷をつくった犯人を糾弾しても癒しはやって来ません。

しかし聖書はキリストの受けた傷によって私たちは癒されたと約束しています。この傷に注目し、私たちの心の傷の場所にイエス・キリストを招くことによって私たちは癒されるのです。

人は誰でもその心に傷を持って成長し、その傷に影響を受けて本来の自分の姿を忘れてしまっています。本当は神の似姿として造られているのに、私たちは傷だらけの人間として行動してしまっています。この傷は人の罪のゆえにつくられます。そして私たちが持つ最も大きくて醜い傷は、神との断絶という傷です。

あなたはイエス・キリストによって神と和解し、まずこの最も大きな傷の癒しを受けなければなりません。そのうえであなたは、イエス・キリストの傷による心の癒しを受け取るのです。

あなたも神と和解をして、イエス・キリストの傷に注目することによるあなたの傷の癒しを受けてください。

あなたがキリスト者なら、キリストの傷のを通して神との交わりを深めましょう。この傷の癒しをあなたの心にまで沁み渡らせるために、今日という日を通して主イエスの傷について瞑目しましょう。

あなたがまだ神との和解を受け取っていないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。あなたが本来の姿を取り戻すために、神の子イエスの救いを受け入れ、この傷によって癒しを受け取って下さい。








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2010年05月10日

聖書の癒し17「基準軸の問題」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんが神の愛を受け取りますように。

 皆さんは、自分がどうしてこんなことをしたのか分らない、というような瞬間がないでしょうか。たとえば次のようなことです。

この話は脳科学者の苫米地英人氏の著書に書かれていた実際の話です。彼の知人が不幸な身の上を持つ男の子を養子に迎えました。親に虐待されて育った小学生です。この知人夫婦はほかにも同じような境遇の養子を何人も育てていたので、この男の子も愛情を豊かに与えられて生活をしていました。ところがある時この男の子は、突然ソファーに火をつけてボヤ騒ぎを起こしてしまいました。知人夫婦は何か理由があるのだろうと思い、愛情を持って叱り、理由を問いただしました。しかし男の子は「どうしてこんなことをしたのか分らない」と答え、自分自身でもその行動が理解できない様子でした。

実は少年は、親から叱られ続け体罰を受け続けて育ったので、自分の自然な姿を「叱られるべき存在」として認識していました。それゆえに知人夫婦が愛情を注ぎながら育てたところ、少年にとっては無意識のうちに居心地が悪くなりました。そしてその心のギャップを解消するべく、無意識のうちに自分の基準に合わせた行動をとってしまったということでした。

この話は結局のところ解決策も提示されないままに話が他に移ってしまっています。しかし現代人にとっては示唆に富む話です。私たちは多かれ少なかれ、他人が私たちに押し付けた基準によって行動してしまっています。

私も自分の中に身構える心があることに気付きました。どこの親でもそうかもしれませんが、私の親も叱ることで教育をしたので、「なんでも否定される自分」という基準が私の心にあったようです。つまり常に言い訳を考えて、相手が自分を否定してくることを期待する心です。

苫米地氏は著書の中で自分の枠に気付くように言います。この枠が私たちの行動を制御しているからです。そして新しい基準として、手の届かないところにあるような高い目標を掲げるように述べます。そうすることによって人は殻を破り続ける、というのが彼の持論です。

しかし結局のところ、自分の枠を壊したところで人は新しくされません。新しくはめた枠の中に入り込むだけです。結局のところ、人は人の基準を打ち破ることができません。ここが自己鍛錬や自己啓発の限界であり、ジレンマなのだと思います。

自分を鍛錬したり、己に打ち勝つように努力したりすることは、それができるうちは素晴らしいことです。自己鍛錬はしないよりした方がよいでしょう。しかし少し考えれば分ることですが、自己鍛錬をしている主体者は自分です。自分に打ち勝ったつもりでも、打ち勝ったのは自分であって、その人は結局なにものも新しくしていないのです。どんなに精進しても怠け心は消えません。ただ習慣がそれを見えないようにしているだけです。

先の話の少年の場合で言えば、愛情をかけ続ければ立派な少年に育つでしょう。しかしそれは、かつての基準に新たな基準が加わっただけです。「叱られてばかりの自分」が、「愛される自分」に置き換わっても、かつての基準から新しい基準にスイッチしただけです。かつての行動様式よりも、「愛される自分」の行動様式の方が自然になったとしても、かつての基準が消えたわけではありません。電気回路にショートカットがありうるように、何かのきっかけでかつての行動基準が動き出さないとは限りません。これが自己鍛錬の限界です。

人は訓練によって新しい行動や考え方に慣れることはできますが、かつての自分は残り続けます。人の作った基準がまた別の基準に置き換わることがあり得ても、人の基準は前の基準を消し去ることはできません。かつての基準が心の傷であったり、癒しを必要としている感情であった場合も、新しい基準は過去の問題を棚上げして別の基準で覆い隠すだけです。

このジレンマから抜け出すためには、人間の基準で人間を見ることをやめる必要があります。人間の基準とは親や社会や自分自身の基準です。これらはすべて罪びとである人間が作ったもので、すべてどこかが歪んでいます。私たちはこのような人の作ったある基準から別の基準に乗り換えるようなことをやめる必要があります。そのためには神の基準を受け入れる必要があります。

神の基準によれば私たち人間は神にとって、イエス・キリストのいのちと引き換えにしてまでも取り戻したい神の被造物です。神は人を神の似姿として造りましたが、人は神から離れ罪を心に帯びてしまいました。この世のすべての悪はこの罪によります。罪は必ずいずれ罰せられ、神の義がまっとうされます。しかしいま生きている間に神の義を受け入れたものには、罪の赦しと神の義がその場で与えられます。

神の義とはあなたのために十字架上でいのちを落としたイエス・キリストのことです。この義はあなたのためにいのちがけで示された神の愛です。私たちはこのような基準を受け入れることによってのみ、心から解放され癒しを受けることができるのです。

あなたもイエス・キリストを信じ受け入れて、神の基準によって癒しの中を歩み出して下さい。

あなたがキリスト者なら、この世の基準に戻ることなく神を見つめ、心の隅々にまでイエス・キリストの愛をしみ渡らせましょう。神の癒しはイエス・キリストに触れて感動する心に行き渡ります。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方の愛は全てに勝る癒しの力です。この方の基準を心に受け入れて歩んでください。








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2010年04月28日

聖書の癒し16「癒しの原則と偶像」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんが神の癒しを受けますように。

 聖書の言う偶像崇拝をすると、私たちはその偶像のようになってしまいます(詩篇115篇2節〜8節)。以前ご報告した、門前仲町のおせんべいやさんで私が見たこともその一つの例です(聖書の寸鉄38「あなたが似ていくもの」http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/127503297.html?1252304759

この偶像礼拝に気をつけるようにとの戒めは聖書のあちこちに記されています。その中でも申命記4章15節から19節の記述は、毎日を忙しく生きる疲れた現代人にとっては大きな意味があります。この記述は、古代イスラエルの民がホレブという山で神に出会った後に記されました:


(引用はじめ)
あなた方は十分に気をつけなさい。主(神)がホレブで日の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も。また天に目を挙げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。
(引用終わり)


 神の山で神の栄光に触れた後、イスラエル人はこのような預言的な戒めを受けました。その後彼らは堕落し、神の怒りを受けることになります。

このように私たち人間は、目に見えるものを頼ったり信じたりする傾向があります。せっかく神の栄光に触れたのにイスラエルの民が堕落してしまったのは、彼らが目に見える困難に対して目に見えない神様を信じることをせず、目に見えるものに助けを求めたからでした。神ではなく目に見えるものを頼りにする人は裏切られ翻弄され、くたくたになります。そうならないための預言的な戒めがこの聖句です。

15節の中で、「十分に気をつけ」てとあります。ヘブライ語の文法を直訳すれば、十分に気をつけるのは私たちの周りの世界に対してではありません。私たちの内側に対してです。この時「気をつけて」と訳されているヘブライ語の単語は「シャマル」です(Strong#8104参照)。この「シャマル」は「観察する」とか、「維持する」という意味にも用いられます。さらに「十分に」と訳された単語は「マッド」です(Strong#3966参照)。これは「テキパキと」とか「激しく」という意味がある単語です。

すなわち私たちが人生の嵐の中の目に見えるものによって脅かされた時、私たちの心を堕落させ荒廃させないためには、嵐に目を留めるのでも、助けを探して外を見つめるのでもなく、自分自身の心の内を激しく観察する必要があるのです。

私たち人間はどうしても目に見えないものを頼ることができません。それよりも目に見える助けを求めます。しかしそれは私たちを成長させないばかりか、神からますます離れさせ私たちを堕落へと導きます。

申命記の8章2節には、私たちの周りで起こるすべての出来事は、私たちが神と共に心の中を見るために起こることが述べられています。すなわち目に見える艱難がやって来た時、神とともに自分の心を見つめなおすことによって、私たちの心は癒され平安を取り戻すのです。

聖書は私たちが神の似姿に造られたと教えます(創世記1章26節)。しかし神から離れたことにより、誰もが心に穴のようなものを持ってしまっています。この穴は神でしか埋めることが出来ないのに、私たちはどうしても何かで埋めようと、見えるものを手当たり次第この穴に入れようとします。そしてこの穴に入れようとする神以外のすべてのものが私たちの偶像となります。

ある人はお金を偶像とし、別の人は異性を偶像とし、さらにペットや趣味や自分自身なども偶像としてしまいます。そして私たちはそれらすべての偶像から悪い影響を受け、偶像に似ていくことになります。

本来は神の似姿としてますます神に近付くべきはずの人間が、神を知らないためにますます神から離れ偶像の影響を受けていってしまいます。そこで聖書は「十分に気をつけ」ること、すなわち激しく自分の内側を(神と共に)点検するようにと忠告しているのです。

逆説的にいえば、私たちが人生で被る大小さまざまな困難は、神とともに自分自身を知るための大きなチャンスです。このチャンスは私たちを癒し成長させ、神の愛で満たします。あなたは本来神と共に生活するように造られているのです。

あなたも神の栄光を輝かせるために、イエス・キリストによって神と和解をし、あらゆる機会を通して自分の心の内を神と共に観察して下さい。これが聖書の示す癒しの原則です。

あなたがキリスト者なら、今日与えられる全ての出来事を通して自分の内側を主と共に観察しましょう。そこに神の語りかけがあるはずです。癒され成長するために、全ての事を通して神と共にあなたの心を見つめなおしましょう。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。目に見える困難は目に見えない方を知るチャンスです。目に見える助けはあなたをいずれ堕落させますが、神とのつながりは全てのことを益に変え、あなたを癒し成長させます。








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2010年03月17日

聖書の癒し15「靴の中の小石」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんが神の祝福を受けますように。

 人の心の小さな傷は靴に入った小石のようなものです。靴の中に小石が入ればとても不快です。痛くない場合でも不快です。しかし歩くことが出来るのでそのうち忘れてしまいます。もしこの小石を取り除かないのなら、あなたはこの小石に支配されるようになります。

この小石は靴の中にとどまり続け、歩くのに足に力が入りません。走ったりすれば痛いです。そこで知らず知らずのうちにその人は、歩き方を変えていきます。小石のことを忘れてしまったら、それが自分の歩き方なのだと思い込むでしょう。本当は走ることが出来ない理由があるのに、その理由を忘れてしまったために走らない理由を考え出します。そしてそれを自分のスタイルだと、自分にも他人にも言い訳します。でも実はその人は、靴の中に入った小さな小石に影響され続けて生きているのです。これが心の傷です。

人はだれでも心にこのような小石を持っています。きっとあなたにも思い当ることがあるのではないでしょうか。

脳科学的に言えば、人の記憶を良くするのには感情を利用すれば良いそうです。たとえば新しいことを覚えたいのなら、新しいことを知ったことを大げさに喜ぶと良いそうです。そしてそのような記憶に残る感情の中でも、もうれしいことや楽しいことよりも恐ろしいことや寂しいことなどのマイナスの感情の方が、より記憶に鮮明に残るのだそうです。

私たちの心の小さな傷はマイナスの感情によって出来ています。怒りや恐れ、悲しみや寂しさなど、昔の自分が味わってしまった強烈な影響を持つマイナスの感情が心に残り傷となっているのです。そしてその記憶は、抑圧され忘れ去られて、心の中で悲鳴を上げています。

自己改革についての本や心理セラピーは、それらの忘れられた心の傷を解放するように教えます。確かに聖書にも同じように心を神と共に見つめ解放することが述べられています(申命記8章2節)。しかし世の中のカウンセリングと大きく違う点は救い主の存在です。

聖書は救い主である神、イエス・キリストが私たちの心と体の病を背負ったと述べます(イザヤ書53章)。そしてこのイエスが救いと癒しをすでに成し遂げたと教えます。人のすべきことはこの方の癒しを心の奥底にまで沁み渡らせることです。そのために人は心に何があるのかを神と共に見つめる必要があります。私たちの身の回りに起こるすべての現象は、私たちが自分の心の中を神と共に見つめるための環境からのメッセージです。

そのメッセージによって心が照らされると、忘れてしまっていた怒りや恐れが思い出されることがあります。今まで抑圧されていた感情が勢いよく噴出します。それは戸惑う瞬間ですが、とても良い現象です。その噴出する感情の巻き添えで、周りの人も自分も驚くことがあるかもしれません。しかし再びその力を押し殺すべきではありません。

この力は今まで心の奥底にあって悲鳴を上げていました。心にあった傷の悲鳴です。この傷はイエス・キリストにしか癒すことはできません。

靴に小石が入っていたことを思い出した時、忘れていた不快感がよみがえります。それは靴の中の小石を取り去るチャンスです。慌てずに、冷静に不快の叫びに耳を傾け、小石のありかを感じ取ります。それが祈りです。

私たちはこの世の出来事を通して神と共に心を観察し、麻痺されていた痛みの声を聞きます。一般的なカウンセリングで出来ることは痛みの自覚までです。聖書はその痛みの個所を救い主に明け渡すように教えます。閉ざしていた心のその場所に、癒しの神イエスを招き入れるのです。そしてイエスが招き入れられた心のその場所は聖められます。新約聖書のヘブル人への手紙12章には、辛い思いも神が聖さを与えようとしているためなので、訓練と思って耐え、心をしっかりと監督しなさいと述べられています。

靴の中に入った小石を取り除くのはイエス・キリストです。この方はあなたの救い主であり、癒し主であり、希望であり喜びです。

あなたもイエス・キリストを信じ受け入れ、祈りによる神との交わりを受け取って下さい。

あなたがキリスト者なら、今日もこの方を心の中心にお迎えしましょう。この方を喜ぶことこそが私たちの力です。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方以外には救いもいやしもありません。唯一の救い主との関係を早く築きあげてください。
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2009年10月30日

聖書の癒し14「心の穴からの解放」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんの上に、神の癒しと慰めが大いに降り注ぎますように。

 私の心の中の解放と癒しについて、一つ思い出したのでお分かちしたいと思います。

 私には高校生の頃、妙な癖がありました。それは食事に関することで、食事を舌ではなく、のどで味わうという癖です。たとえばスパゲティーを食べる時に普通に食べるのではなく、口に入れたスパゲティーをあまり噛まずに、どんどん飲み込んでしまうのです。そうすると当然のようにのどは圧迫されて、一瞬ですがスパゲティーによって詰まります。その詰った感覚が「美味しい」と私には感じられました。舌で美味しいのではなく、のどの圧迫感を美味しいと感じていたのです。

 これは非常に奇妙な癖です。まるで蛇が獲物を丸呑みするような食べ方です。私も自分が蛇にでもなったようなつもりで、少し滑稽に感じていました。それにこの癖はとてもみっともないので人前では出来ません。それに普段よりも大量に食べてしまうので太ってしまいました。まさしくドカ食いでした。それで浪人中にダイエットをする中で、この癖のことは自然と忘れてしまっていました。

 ところがキリスト者になってからどういうわけか、ある時期突然この癖がよみがえりました。何度か自分では気付かずにドカ食いをしましたが、いつも食後は虚しくなりました。どうしてこんな食べ方をするのだろうと、私は不思議に思いました。

私はこんなひらめきこそ主の「細き御声」と信じているので、今度は自分のこころに主を招きいれ自分自身の心の奥底を観察しました。

 そしてこの時もスパゲティーを作って食べる直前だったと思います。私は主との交わりの中で、わざとスパゲティーをのどで味わってみました。

 スパゲティーをあまり噛まずに次から次へとのどに押し込み、かつての癖の通りにドカ食いしてみました。高校生の頃を懐かしく思いながら、主と共に食事をしている感じです。誰かに見られたら恥ずかしいですが、主イエスになら私の妙な癖を見せられます。

 すると私の記憶には高校生の記憶ではなく、私が泣きながらドカ食いをしている記憶がよみがえってきました。それも小学校に上がる前の年齢です。その記憶は詳細では有りませんでしたが、私が母に叱られ、やけくそになって泣きながらドカ食いをしていることははっきりと思い出しました。それと同時に、心の奥底に抑圧されていた寂しさと怒りの感情も思い出しました。

 思い出の中のわたしはなぜだか激しく泣きながら怒りを込めてドカ食いをしていました。その思い出に浸りながら大人になった私も、スパゲティーをのどに押し込みながら泣きました。のどの圧迫を感じつつ主に心を委ねていると、しばらくしてふと妙な感覚がして、私は突然愉快になりました。その感覚とは、今ドカ食いをしている私の傍らで、主イエスが私とともにスパゲティーをドカ食いしてくれている感覚でした。

 この感覚はとても愉快で、さっきまで泣きながら思い出の中でドカ食いしていた幼い私は、同じ思い出の中で主イエスと一緒に笑いながらドカ食いしていました。あまりにおかしかったので大人の私も泣きながら笑い、笑いながらスパゲティーをのどに押し込みました。過去の抑圧された悲しみと怒りの自我が、主イエスによって現代の自分と統合した瞬間でした。その瞬間にわたしは、この幼い時の悲しみと怒りの傷から癒されたと確信しました。

 詩篇103篇3節から5節にはこうあります:

主(神)は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。


 私の過去の悲しみや怒りは、私自身を穴に押し込めいのちを奪っていました。しかし忘れ去られたと思えるこの感情は、心の穴の底からさけびつづけ、私自身に助けを求めていたのです。その心の穴の深い場所に私が主イエスを招いた時、暗闇はイエスのいのちの光で満たされ、私の感情は癒され解放されたのです。

 キリスト者の特権とは、傷だらけでどろどろになっている醜い心の奥底に、聖なる癒し主であるイエス・キリストを招き入れることができることです。どんなに醜い傷でも、主イエスは癒してくれます。なぜなら主は、あなたがその傷を受けてしまったその時にも、あなたのそばに居たからです。あなたが主を知らなかった時にも、主はあなたの癒し主だったのです。

 あなたもこの方に大胆に近づき、心も体も主に明け渡しましょう。主イエスは必ずあなたを癒してくださいます。

 あなたがキリスト者なら、今日という日のあらゆる瞬間に主と交わり主を思いましょう。この方はあなたの全てをご存知です。常にこの方とつながりましょう。

 あなたが未だこの方を知らないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方を知り続けることによって私たちは癒され解放されていくのです。



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2009年10月29日

聖書の癒し13「しあわせへの試練」

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんの上に、神の愛が豊かに降り注ぎますように。

 人は生きていく際に大小様々な苦しみを体験します。その苦しみは人から与えられるものだったり、自分から招いてしまったものだったりします。その苦しみの中で人は、他人や自分を呪ったり、過去を悔やんだりもします。しかし聖書の教えを通してそれらの苦しみを見るのならば、それは人や自分から来るのではなく、その背後にある神の支配を通してやってくるものであると分かります。しかも聖書には、それらは神によって「あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするため」であると書いてあります(申命記8章16節)。

 古代イスラエルの民が砂漠地帯を放浪していた時、彼らは様々なことでリーダーであるモーセを責めました。たとえばエジプト軍が迫って来て恐ろしかった時や、水が無くてのどがからからであった時、さらに神の与えたマナという不思議な食べ物の味に飽きた時、彼らはモーセに悪態をついて罵りました。人の目から見ればその訴えは正当なように見えます。この時彼らは現代人のほとんどのように、それらの試練の背後に神の支配があることを理解できなかったのです。

 彼らは苦しみの原因をモーセに見て、彼が悪いと攻撃しました。しかし申命記の8章2節にはこれらの苦しみの背後には神の支配があり、その苦しみを通して自分の心を見つめなおすことを神が求めていることが書かれています。

 私たちも古代イスラエルの民のように、自分に不愉快なことがあれば他人や自分を責めます。しかしそうすることをやめて、自分の内にあるものは何かを神とともに見つめる時、私たちは神の試みを乗り越えて約束されたしあわせを手にすることができるのです。

 私の言っていることは世間で言うところの瞑想やリラクゼーションとは違います。神を受け入れない人々のそのような行為と、キリストとともに自分の心の中をのぞくことの大きな違いは、聖霊なる神が存在するかしないかの違いです。この違いはとても大きな違いです。

 イエス・キリストを受け入れずにする瞑想は、自分を空にして雑音を下げ、自分の中の押し殺されていた肉の声を聞くことです。すなわち彼らは神の声を聞く状態にはありません。しかしキリストを信じ受け入れた者には聖霊なる神が宿ります。この神の内住はキリスト者のこころに神の語りかけをもたらします。この神の内住とともに自分の内面を観察することが、あなたに聖書の約束するしあわせを掴ませるのです。

世の人がする瞑想がいくら自分の抑圧された内面を解放しようとも、その心を自分が癒すことはできません。しかし神と共にする内観は、抑圧された心を解放するだけではなく、抑圧された時に出来たその心の傷を神に明け渡すことができます。神こそ癒し主であり、この方以外に誰もあなたを癒す方はありません。そのことを聖書は以下のように述べています(詩篇の103篇3節から5節):

(引用始め)
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。
(引用終わり)


 この神を心に招き傷を見つけ、その傷さえも神に明け渡すのがキリスト者の内観です。

 あなたが試練に遭うことは、あなたをしあわせにするための神の計らいです。しかし人には自由意志が許されています。この自由を用いて人を恨んだり、自分を責めたりすることも、あなたの選択次第です。しかしその試練の背後に神の支配を認め、神を自分の内に招き、神に自分の心を捧げて委ねて行くときに、私たちはその試練さえも用いて神に心を癒されます。そしてその試練を乗り越えて、聖書が約束するしあわせへと向かうことができるのです。

 あなたもイエス・キリストを心に招き、しあわせの約束を成就させてください。

 あなたがキリスト者なら、今日も聖霊なる神との交わりの内に自分の心を神に委ねて捧げましょう。主は必ず私たちに約束したしあわせを味あわせてくださいます。

 あなたが未だこの方とつながっていないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方を受け入れるという、あなたの人生で最も重要な決断を、早く済ませてください。



神と人の本当の関係.WAV




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2009年07月17日

聖書の癒し12「庭の水まきと雑草(聖霊の満たしと苦い根)」

 我が家には小さいながらも家庭菜園があります。その庭の水をやっていて気付いたことがあります。それは、土に種をまき水を毎日かけていると、野菜も芽吹けば雑草も育つということです。

ところが野菜の種は蒔いた覚えがあるものの、雑草の種など蒔いた覚えはありません。創世記3章17節18節は土地が人の罪のゆえに呪われてしまい、いばらとあざみ(雑草)を生えさせると書いてあります。蒔いた覚えの無い雑草が、水をかけたことにより土から生じるさまは、私たち人間の心の状態を暗示しているようにも思えます。

水をせっせと土にかければ野菜も育ちますが、雑草も勢いよく育ちます。私たちの心も神の霊に満たされよい種が発芽します。しかし干上がった心に神の霊が水のように浸透していけば、心の中に隠れていた苦い根が命を吹き返し、雑草として生えてくるようです。

この雑草は放っておけば野菜より良く育ってしまいます。そこで草むしりをするわけですが、ここでも面白いことに気付きました。それは、乾いた状態の土から雑草を引っこ抜けば、根が地中に残ってしまいいつかまた雑草が生えてきてしまいます。しかし水を十分にかけた土壌から雑草を抜く時、雑草の根は引きちぎられて地中に残ることなく、ほとんどすべて引っこ抜くことができるということです。

私たちの心の状態もまさしくこの通りです。私たちは神の愛に触れ、イエス・キリストを信じ受け入れます。そのような人なら誰でも経験することがあると思いますが、神の霊に満たされた後、自分の古い性質によって大いに悩まされることがあります。

この時の私たちの心はちょうど、よく耕された土に野菜の種を蒔き、水を十分にかけた状態に似ています。水が野菜の種を発芽させるのと同時に、古い根も命を吹き返します。心が解放され信仰の芽が育つ一方で、押さえつけられ干からびていた古傷や苦々しい思いが、雑草の根のように命を吹き返すのです。

しかしそれでも心に水をかけ、雑草は育たせ目立たせる必要があります。なぜならそうすることによって私たちは、私たちの心の状態を知ることができ、雑草も根ごと引き抜くことができるからです。

水は植物には良いもので、毎日十分にかける必要があります。そしてそのようにしていれば、古い自分も解放されてきますが、更に神の霊に満たされることにより雑草は引き抜きやすくなるのです。

世の人々は干からびています。心の土壌から良いものを探そうとしたり、雑草を引っこ抜こうとしますが、途中で挫折してしまいます。根気が強ければそのうち見栄えの良い土地になるでしょう。しかし雑草の根は地中に残ったままです。ましてや良い植物の種など、いつの間にか自然に蒔かれているはずもありません。

人の心は神の畑であり、神の霊に満たされ、神への信仰の種を神から受け取らなければ、その土地に良いものが生えることは無いのです。

そして神の霊に満たされ続けるあなたにはチャレンジが来ます。それは自分の心の中を知るために神が与えてくれたプレゼントです。このプレゼントをしっかりと受け止める時、人は雑草の根を引き抜き、良い土地に変えられていくのです。

あなたは自分の努力で自分を変えますか。それとも神の霊に満たされて自分を変えますか。

あなたがキリスト者なら、今日も神の霊に十分に満たされましょう。世が与える苦難は神からのプレゼントです。その機会を十分に用い、神の霊に満たされて自分を変えてもらいましょう。

あなたが神との和解をまだ受け取っていないのなら、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神との交わりの内に入ることを強くお勧めします。神の霊に満たされることのみが、あなたを完全に変えることができます。

今日もこのブログを訪れてくださり有り難うございます。

皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの栄光と恵みが豊かに降り注ぎますように。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html







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2009年05月22日

聖書の癒し11「私の中の小さな気付きの報告」

 私は自分自身で、主なる神といっしょに私の心のうちをよく観察します。善悪の判断(裁き)を交えずに自分自身のの心のうちを見ることは、私たちの霊的精神的成長をもたらします。それは旧約聖書の申命記8章2節にある神の言葉を根拠にしています。

先日も、私の心の中にあった抑圧された小さな悲しみを見つけました。見つけたということは、その悲しみを解き放ったという事で、その悲しみから解放されたと言う事です。

このことを記録するのは私自身が神の栄光を記録として残しておく事と、ひょっとしたら皆さんのお役にも立てるかも知れないと思うからです。

このような気付きは小さなものが多く、少しずついつの間にか癒しが進む事が多いように思います。いつもその場その場では、神との交わりにおいて感謝が溢れます。しかしその感謝を記録し覚えておく事は、更なる深い神との交わりのきっかけになると分かりました。

今日お分かちするのも、そういったほんの些細な気付きの一つです。

私はおどける事が好きです。人を笑わせたり、ふざける事をよくします。自分で言うのは恥ずかしいですが、神からの賜物として、私は周りの人々を自然に和ませる事が得意です。

この性格は私の肌に身についたもので、誰もいなくともひとりでおどけて笑ったりします。

猫のモーシェ君に餌をやるときも、「さぁ、今日の我が家のbP猫ちゃんの発表ですっ!」などと言いながら、口でドラムロールの音を出します。「ドルルルルルルッドルッ!」と言いつつ猫缶を開け、皿に盛ります。そして、「今日の我が家のbP猫ちゃんはっ!モーシェ君ですぅ!連続受賞おめでとうございますっ!賞品はこちらです!」と言いつつ皿をモーシェ君の前に渡します。

いつもこんな調子でひとりでいてもおどけています。

それは実に自然な態度のように思っていました。実際それは自然に出てきますが、先日はその中にも心に悲しみを感じました。

その悲しみに気付いたので、主とともにその悲しみを観察し、心に浮かんだ感情を味わってみました。

こんな時、すぐに気付きが与えられる時と、後から与えられる事がありますが、その時はすぐに幼いころの自分を思い出しました。

思い出した頃の自分は、おそらく2歳以下だったと思います。その頃、保育園に行くのが嫌で嫌で仕方がありませんでした。しかし泣いたり悲しんだりしていると、母親が嫌がりました。その反面、私がおどけて遊んだり、表面上は愉快にしていると、母親は喜びました。そのため母親を喜ばすために私はおどける事を覚えました。

主がこの時、私に気付かせてくれたのは、私が寂しさや悲しみを、母にはぶつけられないと思ったことです。そう思ったことで、私の悲しみは抑圧され隠されました。今回の気付きはその抑圧からの解放です。

この気付きはまだ始まったばかりで、さらに深い主との交わりに私を導くように思います。

私が人を和ませられるのは神からの賜物です。しかしもしかしたら、自分の悲しみを表現したくないために発達した性格なのかもしれません。

確かに私は困った事を人に言えなかったり、傷ついても表情に表せなかったりします。それさえも通して主は私に出会ってくれ、間違いなくすべては益に代わっていますが、主はこの面においても私の解放を進めたいのだと思います。

申命記8章2節とその前後の聖句を、癒しに関しての解釈を交えて要約すれば以下のようになります。

神の民はこの世の中という荒野で様々な体験をします。それは神に対する反逆だったり、不信仰だったり、人に対するつぶやきによって神が備えた環境をないがしろにする行為だったりします。それらの事を神が赦したのは、神の民が自分の心のうちにどんな傷や痛みを持っているのか、さらに言えば、どんな汚れや罪を持っているのかを、その人が神とともに見るためです。
神の民にとってこの世で様々な体験をする事が訓練であり、神とともに自分の心を見る事が気付きなのです。この気付きによってあなたは神と交わり神の言葉を食べ、癒されて成長する事が出来ます。


新約の内容も盛り込んでいるので、かなり大胆な意訳です。しかしこれこそ聖書の癒しと解放の中心だと思います。

癒しはテクニックではありません。人の努力でもありません。なぜなら肉の努力は死につながるからです。

癒しは神の業であり、恵みです。その業を行う方を心の奥底まで招きいれる事が、心のうちを見る行為になります。

神を心のうちにお迎えする事は、真理であり、道であり、いのちである方、愛の源泉である方を心に迎え入れることです。この方に触れると人は癒され、愛を受け、導きを受けるのです。

あなたが既にこの方を知っているのなら、益々この方と交わり、いのち溢れてこの地で神の約束を受け取りましょう。この方はその約束を豊かに成就しようとし、あなたを荒野で訓練しています。いまこそすがりましょう。

もしあなたがこの方をまだ知らないのであれば、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神を心に招きいれることを強くお勧めします。人の努力は破綻しています。あなたを救う方はイエス・キリストただおひとりです。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html

posted by モトイ at 15:00| 千葉 | Comment(3) | 聖書の癒し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月13日

聖書の癒し10「癒しの時」

 主の細き御声は注意していないと聞き逃してしまいますが、注意していると常に色々語ってくれるようです。

私がよく行くファミリーレストランで、最近注文間違いがありました。頼んだ餃子がきていないのに、伝票を置いていきました。おそらくそこのファミリーレストランの接客マニュアルには、伝票を置く前に一言注文がすべて来ているかどうか尋ねるようになっていると思いますが、それもありませんでした。

私がよく行くのはいつもすいている時間帯で、いつものウエイトレスのおばちゃんがその時もいました。このおばちゃんはいつもぞんざいな対応でしかも笑顔が全く無いので、初めて行った時はなんだか高校時代の数学の教師を思い出しました。

しかしよく通ううちにそのおばちゃんも、私の顔を覚えてくれたようです。態度は変わりませんが。

昔の自分、(キリストを知らないころ)なら、こんなおばちゃんの態度に腹が立ったのだろうなと、いつも自分の変身振りを不思議に思っていたところへ、注文の間違いでした。

ここでまた私は、確かに昔の自分なら…、などと神の語りかけを聞いていました。餃子については次におばちゃんがこっちへ来たときにでも言えば良いかと、腹も立てづに考えていました。もちろん赦す赦さないの大げさな問題でもなく、餃子の失敗は赦していました。

ところがそこへおばちゃんは、いつも出さない笑顔満面で、「ごめんなさい、餃子のご注文がありましたね」と言って餃子を運んできました。

あまりに素が現れた笑顔だったので、まるで別人で、しかもとても美人に見えました。本当に別人のような笑顔で、けれども声は間違いなくそのおばちゃんだったので、一瞬本気で、そのおばちゃんの妹が来たのかと思ったくらいです。

しかしながら持ってきた注文はまた間違っており、ふた皿分もありました。私がそのことを言うとおばちゃんは、「あっ、そうでしたかすみません。」と言って一瞬おさらを引っ込めようとしましたが、すぐに「でも食べられたらどうぞ。お持ち帰りようのパックも持ってきましょうか」とまで言ってくれました。

私は聖書の言葉の「2倍の祝福」とはこの事かと、主との交わりの中でひとり冗談を言っていましたが、そのおばちゃんのために祈る事を示され短い祈りをしました。すると主は細き御声で私に気付きを与えてくれました。

新約聖書の中には、キリストを受け入れた者が選ばれた種族であり聖なる国民であり、王である祭司であると表現されています(第一ペテロ2章9節)。それゆえどこへ行っても神は、キリスト者が他人のために祈る事をとても喜ぶし、時には祈るようにわざと仕向ける事さえあります。

そのことを思い私は、最初に注文間違いに気付いた時、おばちゃんのために祈っていなかったと思いました。さらに言えば、最初におばちゃんに会ったときからこのかた、祈ったためしがない事に気付きました。

しかしこの気付きは悔い改めとかそう言うことではありません。このときさらに気付かせられた事は他にもあり、そのことによって主の私の心のある部分に対する癒しがかなり進んでいる事に気付かせられました。

その気付かせられた事とは、このおばちゃんの態度が、私のごく幼い時期の母親の態度にとても似ていたことでした。その頃の母はなぜかいつもイライラしていて、理不尽な事で私によく八つ当たりをしていました。(その事が事実かどうかは問題ではなく、私がそう思った事が問題なのです。私がそう思った事が傷であり、私が母を裁いた事が罪なのです。)

この頃の私はいつも母にびくびくしていました。そして絶対に自分が正しいと判断した時は徹底的に抗弁し、そんな私を母はよくぶっていました。

このことは私の記憶からある時期まで忘れ去られはしたものの、心の中で傷となり罪となり、行動原理のひとつとなっていました。

男性でも女性でも、その時期の母のようにイライラした人の前に出ると突然私はその人におもねる様な態度で接し出したり、反対に挑戦的になりけんか腰になる事がよくありました。

クリスチャンになりあるとき祈りの中でそのことに気付かせられました。それまでは自分がそんな行動をとっていることさえ、気付いてはいなかったのです。そして神との交わりの中で、母がそのように、ある一時期とてもイライラしていたことを思い出したのでした。

思い出した事で私のうちで主の癒しが始まり、私の中にも母から受けた負のエネルギーの様な物があるのが分かりました。それを祈りによって神に明け渡し、過去の母にさえ心から感謝できた時、その行動原理は消えて行きました。

もしも未だ私の心の中に主の癒しが働いていなかったのなら、私はこのファミリーレストランには2度と行かなかったでしょう。少なくともそのおばちゃんがいる時間帯は避けていたはずです。主がそのとき示してくれた事はこの事でした。私は本当に主の癒しの不思議さに感謝しました。

旧約聖書の伝道者の書3章は、すべてに時があると教えています。「殺すのにも時があり、いやすのにも時がある(3節)」と言いそして「神のなさる事はすべて、時にかなって美しい」と断言しています(11節)。

私の心が傷を受け、そのことによって母を恨み罪を犯し、心の奥底にしまい込んだことにも時があれば、キリストを知り自分自身の行動原理に気が付いたことにも時があります。そしてもちろん私の心が聖霊なる神の取り扱いを受け、いやされた事にも時がありました。私は主の不思議な取り扱いの方法を思い、感動しました。

人の心はいろいろなものが複雑に絡み合っているので、はっきり断言する事は出来ないのかもしれませんが、おそらくこのことに関しては主の癒しは完了したと感じています。主の時が来たのだと思います。

あなたがいま抱えている問題の中にも、ひょっとしたら神の語りかけが隠れているかもしれません。神は全知全能です。そして全世界を創られた神は、あらゆる手段を通して語る事ができます。その細き御声に耳を傾けるか否かは、あなたの自由意志にかかっています。

もし今日何かを通して神が語られているのを感じたら、その細き御声を通して神との深い交わりを味わってみてください。

今日もここまで読んでいただき有難うございました。しかし一つ付け加えたいのは、聖書によればあなたがこれを読むのも偶然ではなく、時があったと言う事です。

あなたは聖書の神との交わりがありますか。もしあるのであれば、このかたとの交わりをますます大切にしてください。このかたこそあなたを導き平安を与えてくれる方です。

あなたがもし未だこのかたを知らないのであれば、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、このかたとの交わりの中に入る事を強くお勧めします。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html

posted by モトイ at 15:43| 千葉 ☔| Comment(15) | 聖書の癒し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月20日

聖書の癒し9「内なる人の変革4」

お早うございます。
モトイです。

 ジョン&ポーラ・サンフォード著「内なる人の変革」には、私たちが知らず知らずのうちに罪を愛しその結果を呼び込んでいる状況が説明されています。

例えば何かを熱心にするあまりに、「私がこんなに一生懸命なのに……」と言ってそのことに理解をしない他人を非難することがあります。その人は「こんなにまで私が尽くしているのに……」と言って、自分が犠牲になる事を呼び込んでいるというのです。

その人は自分が殉教者のようになる事を愛し、周りの人のゆえにそのようにさせられたと言うストーリーを作り上げます。しかし本当は、自分自身の心にある歪んでしまった自己愛が、自分自身を殉教者に仕立て上げその状況を周りの人を通して作り上げているのです。

この場合、歪んだ自己愛はキリストの愛によって癒されなければなりません。そして、自分の心の行動パターンに気付き、それを主であるキリストに明け渡さなければなりません。

(ここら辺が世にある心理カウンセリングと大きく違うところです。私たち人間は、自分自身の努力では常に限界を思い知らされます。しかし私たちを変えるのは、キリスト者のうちに住む聖霊なる神です。)

その際に重要な事は、キリストの犠牲以外の犠牲を捧げる事、しかも自分自身に捧げる事が罪であること、さらに人の怒りは神の義を全うせず、人殺しと同じ罪であることを理解する事です。

ポーラ・サンフォード氏は、夫のジョンとの関係の中で自分の心にある、罪を愛する性質を見出し、それをキリストに明け渡した過程を次のように説明しています:(p.386)

(引用始め)
 ジョンが夜遅くまで働き、私(ポーラ)や子供たちとあまり一緒に時間を過ごさないでいる限り、私は崇高な殉教者となって一人ぼっちで「十字架を負い」、誰からも感謝されないまま仕え続けることができました。これは私のうぬぼれを満足させました。悪いのは男だということを証明し、自分が上に立つこと(兄弟間闘争で弟たちと張り合った経験を、ジョンに投影させた)を楽しんでいる限り、また自分の苦い根的な人生の見方が繰り返し再確認されることが私にとって大切である限り、私は真剣に自分の苦い根を手放そうとしませんでした。その報いの味の方が甘かったのです。
これでようやく、私たちは「よく監督して…」という命令の必要性が理解できたのではないでしょうか。苦い根を引き抜くためには、時には自分がこれまで人生を定義づけ、自分の(肉的な)価値を見出してきた人生に対する姿勢全体を覆すことが要求されます。それは、悪者どもから迫害を受けつつも、イエスのために立つ立派な者として自己満足してきた肉的な義を憎むことであるかもしれないからです。
(引用終わり)


 引用文中にある「よく監督して…」とは、ヘブル書12章15節の次の聖句の事です:

「そのためには、あなたがたはよく監督して、誰も神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、…」


苦い根を愛してしまうのが肉の弱さです。キリストによる本当のアイデンティティーを、苦い根の作り上げる肉によるアイデンティティーと取り替えない限り、私たちは自分のもつ苦い根さえも見えないようです。

その結果私たちが引き起こすものは、自己義認と他人に対する非難です。しかしそれらは全て自分が引き起こしたものであって、私たちがそれを愛するゆえ、それらのことが起こるのです。

繰り返しになりますが、このような事から脱するためには、先ず私たちの心がキリストの愛によって癒される事。そして心の行動パターンを知り、それを主であるキリストに明け渡すことです。(もちろんそのための大前提は、あなたがイエス・キリストを信じ受け入れ、心に聖霊なる神を迎え入れている必要があります。)

この内面の変革が進むにつれ起こる、身の回りの変化について、同書では次のように述べています:(p.387)

(再び引用始め)
 苦い根の変革がもたらす最終的な祝福は、第一に、絶えず驚かされるようなことが起こる事です。もう物事は以前のようには行きません。新しいことが起こります。以前はそうしなかった人々が誉めたり、愛情を注いだり、前と逆の事をするようになります。悪い「事件」ではなく、良い出来事が起こりだします。物事は目に見える形で、すべて益に変えられます。見逃すことはありません。
(引用終わり)

 
私たちはついつい肉によって努力しがちです。聖霊なる神を知らない世の人々は特に、自分自身が努力しなければ誰も彼らを救わないと、必死で努力します。しかし聖書の世界では、常に神の声を聞くことを第一とします(申命記6章4節5節&ローマ書10章17節)。

私たちを変えるのは、私たちのうちに宿る聖霊なる神です。あなたが既にキリストを受け入れたのなら、ますます深くあなたのうちに宿る、イエスの御霊とも呼ばれる聖霊なる神との交わりを深めましょう。

もしあなたがまだ神の和解を受け入れていないのであれば、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、聖霊なる神との交わりの中を歩む事を強くお勧めします。

ただキリストのみが、あなたを救い導き、あなたの心を神の愛で満たします。この愛があなたを捕らえるようにお祈りします。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html
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2009年04月10日

聖書の癒し8「内なる人の変革3」

 私の知り合いの女性が、男性の友人から女性についての習性のような事を質問されました。彼女はそれには答える事はできなかったそうですが、それを聞いた私は、聖書的な原則から問題の本質が何かを言い当てる事ができました。

男性が疑問を持った事には以下のような背景があります。

彼は数十年も前に破談になった元婚約者から、突然会わないかと誘われたそうです。何事かと思って会っては見たものの、ただお茶を飲みながら世間話をし、お互いの近況などを話しただけだったそうです。

相手の女性は数十年前、婚約していた彼を突然振って別の男性とすぐに結婚してしまったそうです。

彼の方ではそんな事はあったものの、今は別の女性と結婚し家庭を築いており、その女性もそのことを知っていると言う事でした。

そこで彼は私の知人の女性に、女性と言うものはそんな事を突然したくなるものなのかと聞いてきたそうです。

話を聞いて私がすぐに感づいたことは、この女性のとった行動は、十数年前のこともいまも一つの法則にのっとって行動した、パターン化した行動だと言う事です。

私がこの女性と直接話をしていないので、その行動の法則がいつどのようにつくられたかまでは分かりません。しかし、それは心の傷や押し殺した感情、または人を裁いた罪から来る心の叫び声のようなものであると思います。

数十年前、どのような理由からかは別として、この女性は婚約者を裏切る形をとってしまいました。そして今度も同じパターンで行動し、現在の旦那さんを裏切るような行動に出ました。

心の中にある何かが、大きく反応したときは、婚約者を裏切るような行動として現れました。そして小さく反応した時は、旦那さんが嫌がるような行動、つまり過去に婚約者であった男性と会うような行動になって現れました。

それぞれの行動にはそれぞれ言い訳があり、もっともらしい理由さえあるでしょう。しかし問題はそれらの外の要素ではなく、彼女の内側にあることなのです。

私が実際に彼女にあっていないので、この問題はこれ以上追及することができません。しかし、ジョン&ポーラ・サンフォード著「内なる人の改革」には、この問題にふさわしいと思われる記述がありますので、引用してご紹介します。

この箇所で著者は、自分の親に対して持った感情やさばきが、どのように罪の法則として働くかと述べています。(苦い根の裁きと期待p372‐373):

(引用始め)
 他人をさばくと、自分もそれと同じこと(または酷似しているため、根を見逃す事ができないようなこと)をするように定められているというのが、もう一つの取り消す事のできない法則です。例えば(著者の)妻がこのように言う時です。
「私の母は、いつも子供たちに向かって怒鳴っていました。私は自分は絶対にそんなことはしないと誓いました。なのに、今母と同じように、母よりもひどく怒鳴っているのです!」
大酒飲みで、浮気者の父親を持ったある若者がやって来ました。彼は自分の父親のこれらの点が大嫌いで、自分は絶対にそうならないと誓っていました。彼は自分の妻を心から愛していました。彼は聖霊に満たされたクリスチャンになり、毎週教会に行き、聖書を読み、イエスを愛していました。ところが一見何の理由も無いのに彼は酒を飲みに行くことが止められずすでに姦淫の罪も犯してしまいました。罪悪感に苛まれ、不安と混乱に陥って、彼は私たちのもとへ来たのでした。数分の質問を通して、苦い根の裁きのパターンが発覚しました。クリスチャンにはなりましたが、彼は父に対する裁く気持ちについての具体的な悔い改めをしていませんでした。そのため法則の力が働いて、自分の父親がしたのとまったく同じことをするように定められていたのです。
もちろんイエスは、その若者を自分自身の刈り取りから守ろうとされましたし、罪を犯した後も、何とか彼を解放しようと願われました。しかし、彼が自分の中にある根に気づいて具体的に悔い改めをするまでは、自由意志を尊重されたため、恵み深い主ですらそうする事ができなかったのです。カウンセリングを受けて彼は悔い改めました。
(引用終わり)


 私たち人間は、イエス・キリストによる罪の贖いを受け入れる必要があります。そして救われるのですが、主はそれ以後、私たちとの深い交わりを求めるようです。それゆえ心のあらゆる抑圧された感情や思い出などさえも用いて、私たちが常に主の前に出られるように訓練するようです。

キリストが世の終わりの艱難期を預言して次のように「いつも油断せずに祈っていなさい」と言っていた事には、内なる解放のためのこのような主との交わりの意味も含まれていたのだと思います。

「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらのすべてのことからのがれ、人の子(キリスト)の前に立つことのできるように、いつも油断せずに祈っていなさい。(ルカ21章36節)」


私たちの不完全さは、主なる神でしか補うことはできません。あなたがもし自分の足りなさを嘆いているのなら、それは神との交わりを通して神の栄光が働く大いなるきっかけなのだと思います。

神を知るものはますます神につながり、まだ神の救いを受けていないものはすぐにでも主を受け入れ、神の交わりのうちを歩みましょう。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html

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2009年04月03日

聖書の癒し7「内なる人の変革2」

 ジョン&ポーラ・サンフォード著「内なる人の変革」の学びの2回目です。今回は「聖化と変革」の章からご紹介します。

サンフォード氏はこの章の中で、「古い、赦されていない罪が心の奥深くに埋もれたまま忘れられ、ときに望ましくない、信じがたいような行動として表れてくることが」あると述べています。

クリスチャンは内なる人の癒しと聞くと、自分の救いを否定されたように感じる傾向があるようです。それに対しサンフォード氏は、個々の罪には赦しが必要で、イエスご自身のみが赦すことができること、そして、十字架において死ぬことに、私たち自身の参加が必要であることを説いています。

これは救いを否定することではなく、罪の性質からの解放のための癒しであることを強調しています。

そのような内なる人の癒しのための、良くありがちな誤解について、以下のように説明がされています。

(引用始め)
……(私は)聖霊は私たちを改善するつもりも、だんだん良くしていくつもりもないのだ、ということを知らされました。そうではなく、聖霊は私たちを完全に死に至らしめた上で、新しくされるのです。また、内なる人の変革は、私たちがこの地上にいるかぎり、私たちの肉を完全に改革することではなく、私たちを支配する肉の力を葬り去り、私たちにイエスの義を着せるものであるとも、教えられました。

 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(第一コリント一・30)

もし天国にたどり着く前に、人が到達することのできるかぎりの完全な姿となり、自分の人格に自信が持てるようになるほどまで、聖霊によって肉の部分を変革されたなら、その人はやがてイエスに拠り頼むのをやめ、自分の肉に信頼を置くようになるでしょう。全体が一度に完全にされない限り、高慢によって堕落することは避けられません。イエスの継続的な救いに対する感謝の気持ちを失ってしまうでしょう。(p24-25)
(引用終わり)


 自分の努力ではなく、ただイエス・キリストに拠り頼むことで変えられるとのことです。

私たちはついつい自分で自分を変えようと努力してしまいますが、ただキリストによって変えられることを思い、常にキリストと交わることのみが必要なようです。

そしてサンフォード氏は、聖書的セルフイメージは賜物として与えられるものであって、一生懸命努力して立て上げたり、回復したりするものではないことを強調しています。

つまり人の努力を完全に死に至らしめることが、私たちには必要なのでしょう。(ここでまた、一生懸命自分に死のうとすることも、肉の努力であることを思わされます。)

ではどうすれば良いのか。
以下再び引用してご紹介します。

(再び引用始め)
 多くのクリスチャンが、今も自分では気づかないうちに、良き自画像を作り出すために、主を利用しています。祈ったり、何かをしたりするのも、全てこの目的を達成するためなのです。しかしそれは、主のご計画ではありません。私たちが最高の自分を築き上げるようにとは、主は望んでおられません。自分が安心して受け入れられるものを作り出そうとするその努力こそが、十字架につけられるべきものだったのです。
自分自身を立て上げようとし続けるのは、実はありのままの自分を受け入れることからの逃避なのです。力強い自分、愛される自分というものを作り出しさえすれば、自分自身を受け入れ、隠れた所にある腐りきった核の部分に打ち勝つことを追求することなど忘れてしまえると思うからです。
しかし、福音は単純に語ります。もうそんなことは求め続けなくてもいいのです。私たちはすでにありのままの自分、今の成長段階においての自分のままで受け入れられているのです。主は無条件に私たちを愛しておられます。その主が、私たちを立て上げてくださるのです。
主は私たちに、自分自身をありのままの姿で、腐りきった変えられていないままの自分として、受け入れてもらいたいと願っておられます。その上で、主のすばらしさや正しさを、ご自分の聖霊を通して私たちの内に現したいと望んでおられるのです。(p33)
(引用終わり)


 要するに、神に受け入れられていることを信仰を持って私たちが先ず受け入れ、傷だらけの汚れたままの姿でただ聖霊を求めよ、というのが聖書の教えのようです。

ついつい肉の努力をしてしまうのが私たち人間です。そしてこの世の心理カウンセリングも、ある程度の肉の努力を求めます。

ここが聖書の癒しと世のカウンセリングとの大きな違いなので、もう一度繰り返してまとめてみます。

先ず信仰により、主が私たちを完全に受け入れてくださったことを、私たち自身が受け入れます。それが主から与えられるアイデンティティーです。

さらに私たちの努力は完全に死ぬべきです。そして私たちは、聖霊なる神との交わりを常に求めることによって、主によって癒され、変えられ、解放されるのです。

実に単純なことですが、ついつい肉によって努力してしまうのが人間です。その肉の努力をしていることに気が付くために、聖霊との交わりが常に必要になるのでしょう。

サンフォード氏はこの章の終わりに、キリスト者の過ちとして、自分の過去を忘れたり消し去ろうとしたりすることを指摘しています。この章の知識から復習すると、忘れたり消し去ろうとするのも肉の努力ですね。

サンフォード氏の次のステートメントはこの章を総括するのにふさわしい力強さを持ってます。氏はキリスト者にとって、「あらゆる罪に対して神の恵みは完全なので、人生の出来事で無かった方が良かったものや、魂の構造で(手術で切断するように)除去したほうが良い部分など一つもないのです。(p40)」

これこそ信仰の力だと思います。私たちは何と愛にあふれ思慮にあふれた神をいただいている事でしょうか。

もしあなたがこの神とまだ和解をしていないのなら、今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、神との交わりに入ることを強くお勧めします。

人の努力ではなく、ただ神との交わりのみがあなたを癒し導きます。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html
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2009年03月27日

聖書の癒し6「内なる人の変革」より

 聖書的なカウンセリングの本はたくさん有りますが、マルコーシュ出版から出ている「内なる人の改革」(ジョン&ポーラ・サンフォード著)は、私の知るかぎり聖書的カウンセリングを施すものにとっては、最も優れ最も役に立つ内容です。

かなりの量の書物なので、カウンセラーを目指すのでもなければ必要の無い箇所もありますので、特に役に立ちそうな内容をピックアップして、シリーズで時々ご紹介していきたいと思います。

今回は「苦い根の裁きと期待」の章から、以下引用してご紹介します。

(引用始め)
 バートとマーサは私(ジョン)のもとへカウンセリングを受けにやってきました。バートにとって、問題は単純明快でした。マーサの太りすぎにバートは我慢がならなかったのです!マーサも自分自身がいやでしたが、もしバートがいつもいつも批判するのをやめてくれさえすれば、もっと簡単にやせることができるのに、と言い張りました。質問し始めて数分経過した頃には、いくつかの根が見えてきました。
バートを育てた母親は、肥満していただけでなく、だらしない人でした。彼女は自分の容姿を手入れすることを怠りました。家はいつも散らかし放題でした。トイレに行くときも戸を開けたままで、子供たちが出たり入ったりするのも一向にお構いなしでした。バートは母親の外見と習慣に対して、さばく気持ちを抱きました。この苦い根の裁きとその結果として生まれた期待は、自分の妻も太り、だらしなくなるというものだったのです。
マーサの父親は非常に気難しい人で、マーサがいくら努力しても、父に気に入ってもらうことはできませんでした。父親はいつも何かと批判の種を見つけました。また少なくとも、マーサの目にはそのように映っていたのです。マーサの父親が実際にそこまで批判的であったかどうかは、カウンセラーの私にとって重要なことではありませんでした。肝心なのは、マーサが父を裁いたことでした。この領域においてマーサは父を敬うことをしなかったので、人生のあらゆる似たような側面において、幸せになることができなくなったのです(申命記五・16)。彼女が持った苦い根の裁きと期待は、生涯の伴侶となる男性がいつも自分に対して批判的である、また自分は決して彼に気に入られ、受け入れられることはない、というものでした。(p.346-347)
(引用終わり)


 ここでしばらく中断し、解説を加えようと思います。

ここまでは表面に現れた問題と、その背景にあるものです。この章の大前提になっている聖書箇所が3つあります。

一つは、苦い根が表に出て自分や人々を汚すことがないようにと警告するヘブル12章15節です。そして、人を裁くな裁かれないためであると教えるマタイ7章1節2節。そして、まいた種は必ず刈り取ることになるという、ガラテヤ6章7節です。

夫のバートの心にも妻のマーサの心にも、それぞれに苦い根があり、過去に親を裁いたという罪の種がまかれていました。

次からの引用は、それらのまいた種がどのように刈り取られていくかを見せてくれます。

(再び引用開始)
 バートとマーサが初めて会った当時、マーサはほっそりとした美しい女性でした。二人は恋におち、結婚しました。間もなくマーサは妊娠しました。マーサのお腹が大きくなるにつれ、バートはだんだん彼女のことを感謝したり、誉めたりすることができなくなりました。出産後ももとの体重に戻るまで、しばらく時間がかかりました。バートは以前にも増して苛立ち、批判的になっていきました。
 バートは今では、自分は母とそっくりな女と結婚してしまったと確信するようになっていました(心の中ではそう思っていることをはっきりとは認めませんでしたが)。バートはますます批判的になり、文句が多くなりました。しかしこれこそ、マーサがすでに起こるだろうと期待していたことだったのです!責められるとマーサは動揺して不安になり、慰めを得るためにさらに食べ続け、ますます太っていきました。そしてバートがさらに怒りっぽく、批判的になっていくと、マーサも余計に苛立ち、落ち着かなくなり、お腹が空いて太っていきました。またこれらのことのために、マーサは自分自身や家をきちんとした状態で保つことができなくなりました。これらの裁きと反応によって二人はますます苦しい状態に陥り、ついにマーサはバートを怒り狂った悪魔のように、バートは自分はデブと暮らしていると思うまでになったのです。(p.347-348)
(引用終わり)

 
この後、彼ら二人は敬虔なクリスチャンらしくお互いの問題点を話し合ったり、自分の悪いところを直そうとしたり努力します。しかしどんなに良い方向へ向かわせようと二人で決心しても、同じことの繰り返しになってしまいました。バートとマーサは自分たちが非力であると認めざるを得ませんでした。そのような状況で二人は、サンフォード夫妻のカウンセリングに訪れました。

この本によると通常世の中の夫婦関係は、このような状況下では相手を変えようと徹底的に戦ったすえ、無理であることが分かり互いの間に敵意の隔ての壁を築いてしまうそうです。

この隔ての壁は最悪の場合離婚へとつながりますが、お互いの心のうちにある問題はそのまま残ります。したがってたとえ再婚するにしても、同じような行動原理が働いているので、同じことを繰り返し続けるのだそうです。

離婚せずともお互いが身を引いてみれば戦いは治まります。しかし、隔ての壁はお互いを閉ざし、深い孤独が残ると言います。そして神が用意しているはずの本来の結婚の祝福を受け取れなくなってしまうとのことです。

サンフォード氏は通常どの夫婦の問題も、互いの内面の問題がちょうど重なったように作用すると言います。それは神の癒しと解放のための配慮だと語ります。そして男と女は、キリストの十字架によってのみ一つになれるのだとのことです。

そしてそれらの問題には、次の単純な三つの法則があるそうです。

?私たちが親を敬うことのできたあらゆる領域において人生は上手く行き、敬うことのできなかったあらゆる領域において人生は上手く行かない。(これは親を見ずに育った孤児に対してさえ適用されるそうです。つまり、親と接しようが接してなかろうが「親」に対して考えたことやとった行動が影響するとのことです。)

?私たちが人を裁いた同じ領域において、私たちは損害を受ける。

?私たちは確実に自分のまいたものを刈り取る。
(p.354)


サンフォード氏はこれらのことはカウンセリングの鍵として働くと述べています。

さてバートとマーサですが、この後彼らはサンフォード夫妻のカウンセリングによって、相手を変えようとする行為を一切放棄することを学びます。そして神との交わりにおいて、先の3つの原則を用いての自分の内面の改革に臨みます。

この本にはバートとマーサのその後については語られていませんが、この問題を次のように総括しています。

(引用始め)
 結婚、またその他のあらゆる重要な人間関係に対する答えは、ただ一つ、二人の間に立ちはだかる敵意の壁を、キリストの十字架と交換することです。それは、相手に変わることを要求するのを、完全に止めることなのです。
また日々自分に死に、絶えず主に、
「私の中のなにがこの結婚の邪魔をしているのでしょうか?」
「主よ、私の伴侶はなぜ、私と一緒に暮らすだけで自然に良くなっていかないのでしょうか?私の中のなにが死ななければならないのでしょうか?」
「私を死へと導いてください」と求めることなのです。
……(中略)……
たとえ夫婦のどちらかが主による変革の過程を拒否したとしても、全てが失われた訳ではありません。信仰のない夫や妻は、信仰のある配偶者によって聖められているからです(第一コリント7・14)。夫婦の片方の心で何かが起こると、それは意識的ではなくても、少なくとも意識下において、相手にも影響します。そしていずれは実を結ぶのです。夫婦の一人が十字架を留める場所とすることで得られるもっと直接的な効果は、悪循環そのものが断ち切られるということです。もう一人の方は前と変わらず古い習慣パターンによって行動していても、それはもう、クリスチャンに影響を与えることができません。敏感な心の引き金に触れなきうなるのです。(p.359-361)
(引用終わり)


 聖書的カウンセリングの癒しが力強いのは、このように根本的な罪を発見しキリストの十字架で処理することができる、神との交わりがある点です。世のカウンセリングはせいぜい相手を赦し、自分を赦し、穏やかな心で相手と接する、と言う程度だと思います。人間関係のテクニック的なことは身につきますが、根本的な問題に触れることはありません。

このように人は、神の霊である聖霊なる神とともに自分自身の内側を探索し、成長するように招かれています。この招きをあなたはすでに受けたでしょうか。

あなたもイエス・キリストを信じ受け入れ、神の救いを受け入れることによって、この神との交わりの内に入ることができます。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html
posted by モトイ at 15:00| 千葉 ☀| Comment(8) | 聖書の癒し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月26日

聖書の癒しD「良い思い出・悪い思い出」

 私の愛猫のモーシェ君にはすごい特技があります。それは、お気に入りの玩具を私が投げると、犬のようにそれを取って戻ってくるという技です。特に教えたわけでもないのですが、自分が好きなようなので、よくそれをしてくれとせがみます。

これを知り合いに教えるとみなびっくりし、犬のような猫として一時の話題をさらいました。

ところがこの話を、あるご婦人が自分の家に帰って話したところ、家人から自分ちの猫だって昔やっていたと反論されたとのことでした。聞けばそこの家の猫も、うちのモーシェ君と同じように、自分から好きでよくこのような遊びをしてくれとせがんできたらしいのです。

人間もそうですが、猫も幼いときに自分の興味を伸ばされる環境にないと、だんだんと興味も薄れ能力もそれ以上伸ばされることがなく、しまいこまれてしまうと言う事なのでしょうか。

そこで思い出したのが、私の友人が5歳くらいのときに一度だけ通ったという、絵画教室での話です。

彼は現在は絵画などまったく興味がないようですが、その絵画教室の楽しさは鮮明に記憶しているようです。

幼児の体験学習ですので、たいしたことも教えず、何かの絵を描かせたらしいです。彼によるとそれが芋虫だったのか、お花だったのかはさっぱり覚えていないけれども、とにかくお団子のような丸を一つ描いたそうです。

すると絵画教室の先生は、満面の笑みを浮かべて本当に嬉しそうに、「○○君は丸を描くのが上手ね〜」と言ってくれたそうです。それに気をよくしてさらにもう一つの円を描くと、先生は心から楽しそうに、「うわぁ〜上手ね〜」と奇声を上げんばかりに喜んでくれたそうです。

幼いころからサービス精神が旺盛だった彼は、このどはその先生のためにと、特大の丸を描くと先生は、「○○君は円を描けば日本一ね!」と喜んでくれたそうです。

残念ながら彼はそれ以後その絵画教室には通わなかったそうです。しかしこの体験は彼の心の中にものすごい自信を植え付けたようで、彼は小学生になってもしばらく本気で「俺は円を描けば日本一だ」と思っていたそうです。

大人になって何かのきっかけでその思い出を私に話してくれたのですが、そのときの彼は幼かった自分とその自分を誉めてくれた先生が大好き、と言った感じでした。

人の心の中にある良い思い出はいつまでもその人の心に良い影響を与えるようです。

人は神と人とに愛されて生きるように創られています。しかし人が神から離れてしまったために、あらゆる悪いことが起こり始めました。

残念ながら世の中は、私たちに良い思い出だけを与えるわけではありません。良い思い出が長くその人に良い影響を与える同じ原理で、悪い思い出もいつまでもその人に悪い影響を与えます。

この悪い思い出は、神との交わりを通して発見され、キリストの十字架の上に捧げられなければなりません。

そのような神との交わりのためには、神と和解をする必要があります。

あなたにはこの神との関係がすでにありますか。まだなら今すぐにでもイエス・キリストを信じ受け入れ、神との交わりのうちに入ることを強くお勧めします。

(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html
posted by モトイ at 15:00| 千葉 ☁| Comment(0) | 聖書の癒し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする