2012年03月18日

「反キリストの時」第二テサロニケ2章3節から7節

お早う御座います。
モトイです。

メッセージをアップします。
タイトルは「反キリストの時」です。
世の終わりのしるしを示すニュースから、反キリストの登場のタイミングを考えて見ました。
15分ほどです。









下記におもな引用聖句を載せます:



第二テサロニケ2章3節から7節

だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。
あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。








神と人の本当の関係.WAV





 (「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html










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2012年03月11日

大患難前携挙説を支持する理由

モトイです。

メッセージをアップします。
タイトルは「大患難前携挙説を支持する理由」です。全部で30分ほどです。

今回はスライドショーでは無くて動画です。神学的に論争はするつもりはありませんが、どんな人物が話しているのかが分るほうが潔いと思ったためです。

いつも聞いて下さって有り難う御座います。














最後に私のお気に入りの携挙に関する動画です。スペイン語ですが画像が良く出来ていてよく分ります。とても感動的です。この時を心に思い描き、今日と言う日にキリストとの深い交わりを確立しましょう。





2012/3/16追記&訂正
コメントから教えていただきました。この歌はイタリア語で、有名なオペラ歌手Andrea Bocelli(アンドレア・ボチェッリ)の「Con te Partiro. コン・テ・パルティロ(君と旅立とう)」との事です。教えていただき感謝します(^^)








神と人の本当の関係.WAV





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2010年08月27日

黙示録の7つの教会まとめ 最終回(背教の時代について)

お早うございます。
モトイです。

教の皆さんが神の祝福を受けますように。

 黙示録の7つの教会まとめの最終回です。今回は背教の時代についてです。と言うのも黙示録の7つの教会の最後に登場したラオデキヤの教会が背教の教会であり、現代の教会の霊的な背景と一致するとされているからです。前回はラオデキヤの教会を解説しましたが、今回は背教の時代そのものを見て行きたいと思います。

その前にまず、黙示録の7つの教会についてのおさらいです。

黙示録の2章と3章に登場するこの7つの教会は、ヨハネが黙示録を記述した当時に実在した教会です。そしてそれぞれの教会は黙示録に記された通りの状態でした。それと同時にこの7つの教会は、それ以後キリストの教会が体験する霊的な状態を預言的に示してあったと言われています。すなわちヨハネの時代以後の教会は、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルディス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤの霊的な状態を歴史的に体験したとされています。さらにそれぞれの教会時代には、ほかの6つの教会の霊的な状態を持つ信徒たちも存在していたとされています。

現在はラオデキヤの教会の時代であるとされています。先に述べたようにラオデキヤは背教の教会です。つまりそれは現代が背教の時代であると言うことを意味します。それと同時に世界中のどこかには、他の6つの教会の霊的な状態を引き継いだ信徒たちが存在することも意味します。

 7つの教会の最後が背教の時代であることは注目すべきことです。なぜなら、聖書のほかの個所でも世の終わりの押し迫った時代には背教が起こるとされているからです。例えば第二テサロニケの手紙2章3節には次のようにあります:

だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、先ず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。


 この聖句の言う「不法の人」とは聖書のほかの個所、特に黙示録やダニエル書に記されている、後に表れる世界的なカリスマ的リーダーのことです。彼は「反キリスト」としてキリスト者には忌み嫌われますが、世界中の圧倒的大多数の人々からは歓呼の声で迎えられます。

聖書はこの「反キリスト」の出現するお膳立てとして、「背教」が起こることを述べています。では「背教」とは何でしょうか。そして現代が背教の時代なら、どのような背教の事例が現れているのでしょうか。

 ラオデキヤの教会の人々は物質的な状況に満ち足りてしまったために惑わしに陥り、キリストに対して生ぬるくなった人たちでした。それと同時に、キリストをないがしろにしてしまった結果、警告的に示された幻の中では教会の中にキリストは居らず、戸の外に立って叩いている状態でした。このことはラオデキヤの教会にはキリストがいないことを警告していました。一方、彼らの人間的な活動は人の目には満足いくものでした。彼らは自分たちが豊かで満足のいく存在に見えていました。しかし神の目に彼らは「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」でした(黙示録3章14節から22節)。

背教には様々な聖書的な説明が必要でしょうが、黙示録3章のラオデキヤの教会に対する記述から考えると、霊的なことを軽んじてこの世的な活動を重んじる惑わしが背教のはじめであると考えることができます。その行き着く先はキリストの否定です。

前回のラオデキヤの教会についての稿で、背教の時代は1900年ごろから始まったことを指摘しました。具体的な事例を言えば、1910年にアメリカの長老派会議(General Assembly of the Presbyterian Church)では、次の5つの全てを信じる人々をキリスト教原理主義者として規定し、極端なキリスト者の例としました。その5つとは、1)聖書が神の霊観を受けた書物であること、2)イエスが処女マリアから生まれたこと、3)イエスが罪の代価となって十字架上で死んだこと、4)イエスの復活、5)イエスの行った奇跡が事実であること、です。自由主義神学者たちが示したこの規定から言えば、私はすでにキリスト教原理主義者として、極端な信仰を持つ危険な人物となってしまいます。

教会のこの世的な活動もちょうどこのころから活発になって来ます。それは宗教の連帯であるエキュメニカル運動に顕著に表れています。

エキュメニカル運動とは、カトリックが中心になって推し進めている神概念の統一の運動のことです。この運動については以前に詳しく記事を書きました。私自身あらためてその記事を読んでみて、宗教の統一運動が1900年以降に活発になっていることを確認して、すでに背教の時代が来ていることを驚いています。
( 「聖書と今日の動き・前編(ラジオリバティーより)」http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/115898871.html?1237441607
(「聖書と今日の動き・後編」http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/116070236.html?1237731960

 この世に目をとめれば宗教は統一した方が平和のためでしょう。イスラム世界ではキリスト教徒の腐敗がすべての悪の根源であるとされていますし、先進国ではイスラム教原理主義者たちによるテロの危険が叫ばれています。日本でも運気を変えると称して怪しげな壺を売りつけたり、家族の一人が修業と称して家出して、宗教団体に拉致監禁されたりと、とかく宗教は毛嫌いされる帰来があります。そこでニューエイジ的な考え方、すなわち、全ての宗教は同じ神の別の表現であるとする考え方が支持され、宗教概念の統一が叫ばれ出します。
(ニューエイジの霊的な背景については下記を参照:ニューエイジに対する傾向と対策http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/130930475.html?1256203265

これらの背教の動きはさらに加速し、そして反キリストが登場することになります。彼は宗教統一のムーブメントに乗じて世界的なリーダーとなります。しかしやがて彼は、この世界統一宗教をも否定して自分が神であると宣言します(第二テサロニケ2章4節)。

霊的な世界では背教はすでに始まっています。しかしこの世的な目で見れば今後は神概念が統一され、良い宗教と悪い宗教の区別が付きやすくなる便利な概念が登場するでしょう。そして人々はそれを人類の精神的な進歩であるとさえ言いだすでしょう。不法の秘密はすでに働いているのです(第二テサロニケ2章7節)。

このような時代にあって私たちがまず求めなければならないのは、全世界と霊的な世界を支配される神とのつながりです。このつながりが私たちを安全に導きます。そしてこのつながりは、イエス・キリストを信じ受け入れることによってのみ与えられる神とのつながりです。

あなたはすでにこのつながりを持っていますか。

あなたがキリスト者なら、今日もこの方とつながりこの方から豊かないのちを受け取りましょう。イエスこそ私たちの砦です。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方以外にあなたを惑わしから守る方はいません。この方とつながる決断を早くしてください。








神と人の本当の関係.WAV




 (「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html










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2010年08月25日

黙示録の7つの教会まとめ その8

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんが神の栄光を見ますように。

 黙示録の7つの教会のまとめの続きです。次回で最終回です。今回は七つ目に登場するラオデキヤの教会についてです。この教会は背教の教会ですが、背教の時代については最終回にまとめて取り上げたいと思います。今回は純粋にラオデキヤの教会だけを解説いたします。

この教会は7つの教会のうちでも最悪とされています。その理由はイエスの称賛の言葉が一つも無いからです。他の6つの教会にはどこか一つでも褒めるところがありましたが、この教会にはありません。そして後に聖句を示しますが、キリストがこの教会の中にはいません。その代りに主は「戸の外で立って」います。それゆえラオデキヤの教会は背教の時代の教会と言われています。

ラオデキヤとはギリシャ語で「人による支配」を意味します。これは人間中心主義の元祖であるギリシャ世界では悪い名前ではありません。しかしラオデキヤの教会は黙示録の記された当時にはその名の通り人間中心に陥ってしまい、救い主である神、キリストまで外へ押し出してしまったようです。

ラオデキヤの町は新約聖書に登場するコロサイの町に近く、コロサイの町では冷たい泉が湧きだすことで有名でした。一方温泉のわき出すことで有名なヒエラポリスと言う町も近くにありました。それゆえキリストが叱責する「冷たくも無く、熱くも無い」と言う言葉には敏感に反応できたはずです。

またラオデキヤは金融業の中心地であり、毛織物でも有名でした。特産品は黒い羊で織った布と、弱視者用の目薬でした。町は大変栄えていたようですが、キリストが「白い衣」や「眼薬」を買うようにと警告したことにラオデキヤの教会の人々は驚いたのではないでしょうか。

教会史的には1900年から現在までの時代の雰囲気に符合します。この時代は聖書に対する信仰が揺らぎだした時代です。しかもそれが神学として成立し、教団教派を侵食してゆきました。具体的に言えば、リベラル神学の出現がそれです。日本語では自由主義神学とも訳されます。

簡単に説明するとこのリベラル神学は、「聖書は偽りのない神の言葉」と言う伝統的な立場を否定します。そして聖書は人間が書いた言葉と神の言葉が混在すると主張します。このような神学に浸食されたキリスト者は、次第に聖書を字義通りに解釈しなくなります。そして行き着くところは、三位一体とイエスが神の子であることの否定です。

現代はラオデキヤの教会の時代、つまり背教の時代だと言われています。その証拠に聖書を字義どおりに解釈しない教役者や信徒は、どこの教団や教派にも存在します。このようなことは、単なる無知は除いて、100年以上前の教会には有り得なかったことです。

以上のことを踏まえて、黙示録3章14節から22節を見て行きましょう:

:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
:15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」


 ラオデキヤの教会には賛辞が一つも無いことには触れました。商業都市としてにぎわっていたラオデキヤの信徒たちは、物質面では大変恵まれていたでしょう。しかしその豊かさは彼らの罠として働き、彼らは内面的なことを顧みなくなりました。そしてその結果が「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」でした。

現代の教会においても物質的・外面的なことに心を奪われると、キリスト者の信仰は生ぬるくなり、霊的には目が見えなく、裸の者になっていきます。ヘブル書にあるごとく、目に見える世界が目に見えないもので支えられていることを知るのは、揺るぐことのない信仰によってなのです(11章3節)。

17節でキリストから「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」であると叱責された彼らですが、18節ではそこから抜け出すために買うべきものが三つ指定されています。一つは火で精錬された金。二つ目は裸の恥を覆うための白い衣。三つ目は見えるようになるための目薬です。

ローマ帝国では金貨が使われていました。当然豊かなラオデキヤの人々は、金貨を沢山持っていたでしょう。布にしても目薬にしてもこの町の特産品でした。しかしキリストは代価を払って「買え」と警告しています。

金とは聖書的には信仰を意味します。火は信仰を鍛え上げる試練を指します。火で精錬された金とは、試練によって不純物を取り除かれた純粋な信仰を意味します。

白い衣は救いを表します。全ての人はアダムの罪を受け継いでいます。アダムは罪を犯した瞬間に裸であると思って隠れました。実は以前から裸であったところに罪が入り込み、神の前にはそのまま出られなくなったのです。これが聖書の言う「裸の恥」です。白い衣はそれを覆い、恥をぬぐい去る救いを表します。

目が見えるようになるための目薬とは、当然目が見えない人々の薬です。キリストは律法の専門家やパリサイ人らを「盲人」と呼びました。なぜなら彼らは神を見ていなかったからです。ラオデキヤの人々も同じでした。彼らはこの世ばかり見る盲人でした。見えるようになるためには代価を払って霊的な目薬を買う必要がありました。

現代はかつてないほどにテクノロジーが発達し、便利で豊かになりました。そのような物質的な豊かさの中にある現代の教会も、ラオデキヤの教会の人々と同じようにこの世を見つめてしまっているのなら、その信仰は次第に生ぬるくなりイエスから吐き出されてしまうでしょう。火で精錬された信仰と罪を覆うキリストの救い、そして見るための聖霊との交わりは、現代のキリスト者の誰もが手放してはならないものです。

キリストは全人類のために支払われた罪の代価です。これらの三つのものはキリストを受け入れることによってのみ与えられます。ラオデキヤの教会の人々にとって、これらの三つのものを「買え」と言われたことは、大変な衝撃であったはずです。

しかし19節の次の言葉は大きな慰めでもあったでしょう:

「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」


イエス・キリストは罪人を救うために世に来られました。罪の償いを十字架上で一身に背負って、贖いの代価となられました。このようなことができたのは、神であるキリストが罪びとを愛していたからです。この力強い愛はラオデキヤの人々にも向けられていました。もし彼らが主イエスのドアをたたく音を聞き、主を内側に招き入れたのなら、彼らは主との交わりのうちに食事をすることができたでしょう。このことは私たちに対しても同じです。

私たちが神の訪れを知るには、私たちではなく神が最初にドアをノックする必要があります。そしてそれはイエス・キリストによってなされ、今日と言う日にもなされ続けています。

あなたはこの扉のノックの音を聞いていますか。

あなたがキリスト者なら、今日と言う日に主の訪れを聞き、主を内側に迎え入れましょう。神はあらゆることを通して今もあなたに語ります。主イエスと交わり、ともに食事をする一日を送りましょう。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。神との交わりの無い人生は、みじめで貧しく、盲目で裸です。この方を受け入れてください。









神と人の本当の関係.WAV




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2010年08月20日

黙示録の7つの教会まとめ その7

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんの上に神の祝福がありますように。

 黙示録の教会のまとめの続きです。今日は六番目に登場するフィラデルフィヤの教会についてです。

この教会は七つの教会のうち叱責を受けていない二つの教会の一つです。もう一つのスミルナの教会は大変な艱難の中での忠実さのゆえにイエスに褒められていましたが、この教会は小さな力を有効に用いて忠実に歩んだために賞賛されています。

フィラデルフィヤとは「兄弟愛」と言う意味です。この町は交通の要所として栄えました。それゆえに黙示録の記された当時も人の行き来が盛んでした。それゆえに伝道も実直になされていたようです。

教会史的には三十年戦争の終わった1648年ごろから1900年ごろに相当するとされています。特に宣教活動の盛んであった1700年ごろからの200年間はフィラデルフィアの教会の特徴をよく表した時代だとされています。

この200年間は歴史に残るキリスト者が沢山活躍しました。ハドソン・テーラーやジョージ・ミウラーなどはそのほんの一例です。

この時代は欧米列強による植民地支配の時代でした。何かと批判のある帝国主義の時代ですが、福音宣教の面で言えば現在よりも宣教の扉が開いていたと言われています。現在では宣教活動が禁止されている場所も、この時代にあっては扉が開いていました。

これらのことを踏まえて、以下に黙示録3章7節から13節を見て行きます:

 :7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
:8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
:9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
:11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
:13 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』


 先にもふれたようにこのフィラデルフィヤの教会はスミルナの教会と並んで、イエス・キリストからの叱責の言葉が全くない教会です。そして奇妙なことにこの二つの教会にはそれぞれ、「ユダヤ人だと自称」していながら実はそうではない、偽ユダヤ人に対する記述があります。

スミルナの教会の稿でも触れましたが、この偽ユダヤ人に対する解釈は二通りあります。一つは「信仰による人々こそアブラハムの子孫」であると言うガラテヤ3章7節から、信仰があるふりをしている偽のキリスト者です。そしてもう一つは血筋によるユダヤ人のふりをしている人々です。私は特にアシュケナージユダヤ人と言われるカザール人の子孫がこれに当たると考えています。
(カザール人については以前に書いた記事をご覧ください: 「 カザール王国復活?:密かに始動か?偽ユダヤ人!」http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/142642955.html?1267580388

 いずれにせよ、七つの教会のうちでキリストの叱責を全く受けていないスミルナとフィラデルフィヤの教会に、偽ユダヤ人に対する記述があることは注目に値します。どちらの解釈にしても、正しい信仰の道に歩んでいる者に対する偽りの人々の攻撃があると理解することができます。しかしながらフィラデルフィヤの教会に対してキリストは、彼ら偽りの人々を「あなたの足もとに来てひれ伏させ」ると約束しています。それによりキリストはフィラデルフィヤの教会に愛を示すと述べています。

「その1」の稿でも述べましたが、フィラデルフィヤ(タイプ)の教会は大艱難期を経験しないと考えられています。その根拠は10節にある「試練の時には、あなたを守ろう」と言う聖句の中に使われている「エク」と言うギリシャ語の単語にあります。この言葉は日本語の訳には上手く表現されていませんが、大艱難の時に「外に出して」守ると言うニュアンスがあります。もしもここで「大艱難の中で守る」と言う意味にしたかった場合には、「エク」の代わりに「ディア」と言う言葉を使うはずです。

現在でも宣教熱心で与えられた恵みを大きく用いているような教会は、来るべき大艱難期を見ずに済むという解釈があります。

11節には「冠を奪われるな」と言う警告があります。この「冠」は戦争に勝利した者に贈られる冠を表す「ステパノス」と言う単語が使われています。そのことからここでイエスは「救いの冠」を奪われるなと言っているのではなく、「報酬の冠」を奪われるなと言っていることが分ります。

12節にある勝利を得る者に対する報酬の中には、神の名と新しいエルサレムの名、それにキリストの新しい名を与えるとあります。聖書の中で扱われる名前には、その人の全人格や全人生が表されているとされています。勝利を得た者にこれらの三つの名が書き記されるとは、神とキリストの全人格的な交わりが与えられる約束と、神の都の全てが与えられると言う意味と解釈できます。キリストの名に対して忠実であった彼らにふさわしい報酬です。勝利者として彼らは、神とともに永遠の都で過ごすことになります。

この報酬の約束にあるように、私たち全ての人間はいずれ、永遠の時間を誰とどこで過ごすかの選択をいま迫られています。それは二つに一つの選択です。

一つは神とともに永遠の都で過ごすこと。もう一つは、神に罰せられるサタンとともに、火と硫黄の燃える池の中で永遠に過ごすことです。

イエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神とともに永遠の都で過ごすことをいま選択してください。

あなたがキリスト者なら、今日もあなたを救った方との交わりの中でいのちを受けましょう。このいのちによってあなたは、弱くとも強いとされ、貧しくとも豊かなものとされ、力強く生きることが出来ます。そのためにこの方から豊かないのちを受けてください。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。あなたの人生のうちでもっとも重要な決断を先延ばしにしないで下さい。








神と人の本当の関係.WAV




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2010年08月19日

黙示録の7つの教会まとめ その6

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんが神の祝福を受けますように。

 黙示録の7つの教会についての続きです。今日は五番目に登場するサルデスの教会についてです。

サルデスの意味は「逃げのがれた者たち」です。この町は難攻不落を誇る都市で、敵の侵入についての緊張感に欠けた雰囲気があったようです。そのために預言的に警告されている「目をさましなさい」と言う警告は、聞く者に現実味を感じさせたようです。

教会史的にはAD1520年ごろから1648年ごろに相当し、プロテスタントの草創期と一致するとされています。

1520年はルターが「信仰義認」についての教義をまとめた年です。そして1648年は三十年戦争の講和条約であるヴェストファーレン条約が締結された年です。この戦争はヨーロッパのほとんどの大国が参加した、カトリックとプロテスタントの宗教戦争でした。

このことからも分るように、カトリックの腐敗を糾弾して立ち上がった宗教改革のムーブメントも、結局国家と教会が一つになってしまい、信仰的には硬直して行きました。これはローマの皇帝、コンスタンティヌスによってキリスト教が国教化された「ペルガモの教会時代」と同じ霊的な後退でした。

事実ドイツや北欧ではルター派が国教化され、イギリスでもイングランドでは聖公会が、スコットランドでは長老会派が、スイスではカルバンの改革派などが国の指定を受けていました。

これらのことを踏まえて、黙示録3章1節から6節を読んで行きましょう:

 :1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。
:6 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』


 キリストはサルデスの教会に対して「死んでいる」と叱責しています。彼らは教会の暗黒時代を終わらせ、教義を正しく導きました。しかし霊的には死んでいました。

その霊的に死んだ教会に対してのキリストの現れ方は「神の七つの御霊、および七つの星を持つ方」です。黙示録1章4節・16節・20節より、この表現がキリストを神の御霊と神の教会の天使を支配する者として表していることが分ります。このことからサルデスの教会は「目を覚ます」ために、霊的な存在の支配者である方との交わりを強調されていることが分ります。

 宗教改革は教会の暗黒時代を終わらせました。しかし初めは「生きて」いるとされたこの時代の教会も、教会が国と一つになることによって再び神の前では「死んだ」ものとなってしまいました。

サルデスの教会へのキリストの警告を見ると、この教会の中では自分たちの信仰が「生きている」と思って「神の前にまっとうされた」とさえ考えていることが分ります。しかし信仰が個人的な神との関係から社会的な慣習になった時、教会員の多くが信仰を持たない「死んだ」人々となってしまいました。

そこでキリストは「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい」と語ります。このことは彼らが立てた当初の宗教的な教義は彼らを「生かす」ことが分ります。しかし逆説的にいえば、正しい教義はそれだけでは教会を生きたままにしなかったことも分ります。このことを平たく言えば、聖書の正しい理解は信仰者に不可欠ですが、神の霊との交わりを忘れてしまった信仰は次第に冷めて行ってしまう、と言うことになります。

3節でキリストは悔い改めを迫っています。そして同時に「もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」とも言及しています。

つまりサルデスの教会のように眠ったままでいる信仰者は、キリストの来臨に気が付かないと警告されています。この警告よりサルデス的な教会は携挙を逃してしまうと言われています。

不思議なことにサルデスの教会のように信仰が「眠って」いるように見える教会は、イエス・キリストの再臨や終末についての教えがあまりされていないことが分ります。

私の個人的な経験では、そのような教会の指導者たちは、キリストの再臨が数百年後まで無いと思っているようでした。おそらくこのことは、「あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない」と言うキリストの言葉の成就なのだと思います。

しかしこの記述は何も携挙に関することだけではありません。神は日々細き御声によって信仰者に語ります。心を閉ざし神の霊との交わりを失ったキリスト者は、日々の歩みの中でのキリストの訪れを逃してしまいます。そのような信仰者はたとえ熱心に教会に通い奉仕もする「生きた」信仰者のように見えたとしても、神の目には「死んだ」ものとして映ってしまいます。

一方4節には、サルデスの教会の中にも神の御心にかなった人々がいることも記されています。このことから「死んだ」人々の中にいても「生きる」ことができ、信仰が神との個人的な関係であると分ります。そのようにサルデスの教会の中にいても神の目にかなう人々は、それにふさわしい報いを受けるとキリストは語ります。

信仰とは社会や家族的な慣習でも、国家の法律でもありません。本当に生きた信仰とは、生ける神キリストとの個人的な関係です。この関係はすべての人をいかします。なぜならキリストは永遠のいのちを持つ方だからです。

あなたはこの方との関係をすでに持っていますか。

あなたがキリスト者なら、今日と言う日の中でこの方との交わりを通して、豊かないのちを受け取り続けましょう。この方との交わりはあなたを生かし、癒し、導きます。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方以外にあなたにいのちを与える方はいません。








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2010年08月18日

黙示録の7つの教会まとめ その5

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんが神の祝福を受けますように。

 黙示録の7つの教会のまとめの続きです。今日は四番目に登場するテアテラの教会についてです。

テアテラとは「絶え間のない犠牲の捧げもの」と言う意味です。その意味のごとくこの教会では、異教の教えによる絶え間のない犠牲の捧げものがあったようです。しかしイエス・キリストは一度で完全な、神へのささげものとなられました(ヘブル7章27節)。

教会史的には「暗黒時代(Dark Ages)」と呼ばれた、AD600年ごろから1520年ごろを指します。1520年は宗教改革を進めていたルターが、信仰義認についての教理を確立した年です。テアテラの教会に対する預言はカトリックの教会に相当すると考えられています。

以下に黙示録2章18節から29節を引用します:

 :18 また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。
:19 「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。
:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。
:21 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。
:22 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
:23 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。
:24 しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
:25 ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。
:26 勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
:27 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
:28 また、彼に明けの明星を与えよう。
:29 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』


 キリストは冒頭でテアテラの教会の行いについて褒めています。しかしこの教会は決定的な汚点がありました。その汚点はそれまでの教会の善行を全て吹き飛ばしてしまうほどのキリストの怒りを買っています。その怒りとはイゼベルによる偶像崇拝であると、キリストは語っています。

いままでもエペソの教会はニコライ派(宗教的権威主義)について、またペルガモの教会はニコライ派とバラムの教え(宗教的堕落・世俗化)についてキリストから叱責を受けていました。しかしテアテラの教会はそれ以上の叱責を受けています。その理由はイゼベルの教えが全く別の教えだからです。

ニコライ派は聖職者と信徒との間の硬直化です。教会のリーダーが専制的になり、信徒を支配するような教えです。それに対してバラムの教えは教会に世俗的な価値観が入り込んだものです。ペルガモの教会の稿で取り上げたように、バラムは神の預言者でしたが、イスラエルをモアブの女によって不品行に陥れました。ゆえにバラムの教えは教会がこの世の価値観に迎合する教えです。

ところがイゼベルはイスラエルに異教の神を拝ませた人物です。旧約聖書の第一列王記16章29節33節には、イゼベルの夫であったアハブ王は、彼女をめとったがゆえにバアルやアシェラなどの異教の神々を拝んだと記されています。

キリストはテアテラの教会に、偽預言者であるイゼベルの教えがあると糾弾しています。これは教会のゆがみに対する叱責ではなく、キリストに対する信仰を全く別の宗教にしてしまったと言う叱責です。

22節23節ではテアテラの教会の中でイゼベルの教えから離れない人々に対する警告が記されています。その中で特に22節の「大きな患難の中に投げ込もう」と言う警告は注目すべきです。なぜなら、黙示録17章18章には、終末の時代の混乱期である大艱難期と呼ばれる時期に、人々を惑わしてキリスト者を迫害し、神を汚す淫婦が登場するからです。

この記述からテアテラの教会で象徴されるカトリックの一部は、終末の時代の大艱難期に突入すると言われています。そして一時は反キリストと呼ばれる世界的なリーダーとともに大きな権力をつかむものの、後に仲間たちから裏切られて滅びるとされています。

しかしテアテラの教会にもイゼベルの教えを受けていない人々がいるとキリストは語っています。24節では、彼らに対してほかの重荷を負わせないとの約束があります。

キリストの度重なる警告を無視すれば、神の恵みから外される時が来ます。その一方で、退廃した教えの中にあっても惑わされない人々に対しては、神の守りが約束されています。

このことはすべての人に対するキリストの警告として受け止めることができます。いずれ私たちすべての人間は神の前に立つことになります。そして今も神はすべての人々に、イエス・キリストを通してご自分と和解をするように語りかけています。この語りかけを無駄にしてはいけません。

あなたはすでに神との和解を受け取りましたか。

あなたがキリスト者なら、この背教の時代の中にあって今日も神との正しい関係を持ちましょう。聖霊との交わりによって神の守りの中を今日も歩みましょう。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。神の語りかけを無駄にしてはいけません。まだ時間があると思える今のうちに、神との正しい関係を築いて下さい。








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2010年08月13日

黙示録の7つの教会まとめ その4

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんが神の恵みを受けますように。

 今日は3番目に登場するペルガモの教会についてです。この教会はイエス・キリストから叱責を受ける5つの教会の一つです。

ペルガモとは、「徹底的に結婚する」と言う意味です。日本語だと良く分りませんが、英語で重婚を意味する「ビガミー(bigamy)」や、複婚(一夫多妻や一妻多夫)を意味する「ポリガミー(polygamy)」と語源が同じであると言えば理解できると思います。ようするに不品行が文化的な常識であった町です。

町には偶像を拝む寺院が沢山ありました。その一つは蛇の形をした偶像のエスクラピウスを祭る寺院でした。エスクラピウスの意味は、「蛇の子」です。

教会史的にペルガモに対する預言は、AD313年から600年の教会の雰囲気に符合すると言われています。前回見てきたように313年はローマ帝国皇帝のコンスタンティヌス帝がキリスト教を全面的に受け入れた年です。具体的にはキリスト教がローマ帝国の国教とされた年です。

以上のことを踏まえて、黙示録2章12節から17節を見て行きましょう:

:12 また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
:13 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。
:15 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
:16 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。
:17 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』


 13節の「サタンの王座」とはペルガモの偶像崇拝のことだとされています。殉教者アンティパスについてはほとんど分っていません。しかし実際の殉教者の名前でしょう。「アンティパス」の意味するところは、「全てに立ち向かう」です。ペルガモの町での信仰の戦いを象徴しているような名前です。

このアンティパスの死に際しても信仰を失わなかったことをイエスは良しとしますが、次の14節では旧約聖書の登場人物であるバラムとバラクを用いてペルガモの教会を叱咤します。

民数記22章から24章に登場するバラクはモアブの王です。彼はイスラエルの民を恐れたために預言者バラムを雇い、イスラエルに呪いをかけることを頼みます。しかし4度もかけた呪いはすべて祝福の祈りとなってイスラエルを守ります。民数記31章15節16節にはこの後の顛末が短く載っています。それによると彼らは、モアブの女性を使ってイスラエルを不品行に誘うことに成功したようです。
これらのことからイエスがこのところで預言的に警告しているのは、教会が世の中の乱れを受け入れてしまうことです。そして現代の教会に対する警告も同じです。

この世はアダムの堕落以来みな堕落しています。それゆえパウロが第一コリント5章10節で言うように、もしこの世の汚れに触れないようにするのなら、キリスト者はこの世界から出て行かなければならないでしょう。しかし教会内の汚れと交わるべきではありません。
キリスト者はこの世で生活しますが、教会は世の汚れに妥協してはいけません。とくに性的な堕落には注意しなければなりません。神の守りによって呪いを祝福に変えていただいたイスラエルでさえ、バラムの策略によって不品行を招き入れてしまいました。

15節ではエペソの教会の個所でも出てきたニコライ派が登場します。教会にとって宗教的な専制は陥りやすい罠のようです。教会指摘にもこの時代は、聖職者と世俗の人に区別が付くようになった時代です。キリスト教が国教になったために迫害は止みますが、国と教会が一つになったために信仰が無機的になり、神との個人的な交わりがないがしろにされ出しました。そして聖職者たちは信徒に対して専制的に振舞いだしました。イエスはそのような教会文化に対して叱責をしています。

ではこれらの問題に対する解決策は何でしょうか。そのヒントはイエスの現れ方と叱責の言葉に表現されています。
12節でイエスは両刃の剣、すなわち神の言葉を持つ姿で表現されています。16節では悔い改めない者に対してイエス自身が口の剣で戦うと述べられています。このことより、ペルガモの教会は自らも神の言葉によってこれらの問題に対処すべきと理解できます。

このことは現代のペルガモ的な問題に対しても適応できます。世の汚れや、宗教的な権威主義に対処するためには、キリスト者一人ひとりが神の言葉によって武装すべきです。またそうするためにも、世の中や宗教的な権威と交わるよりも、神の言葉であるイエス・キリストその方との時間をより多く持つべきです。

17節ではそのような交わりを通して勝利を得た者に対する報酬を三つ述べています。

第一は隠れたマナです。マナはイスラエルの民が荒野を通っている間中に、神によって与えられた超自然的なパンです。そしてイエスはご自身を「天からのまことのパン」とも「いのちのパン」とも語っています(ヨハネ6章32節〜35節)。勝利を得る者には神はイエス・キリストご自身と神の言葉の隠れた恵みをお与えになります。

第二は白い石です。これは当時の裁判制度の中で、無罪放免の時に渡される白い石をイメージさせます。同時に招待制の宴会の招待客に手渡される白い石も想起させます。勝利を得る者は罪に定められることは無く、主イエスから特別な宴会の招待を受けると言う意味でしょう。

第三はその白い石に記された新しい名です。これは「受ける者のほかは誰も知らない」名前です。聖書の中で名前はその人の全人格や全人生を表します。新しい名をイエスに与えられるとは、勝利したものとイエスとの個人的な新しい関係を意味します。そしてその関係は永遠に続きます。

先に述べたように、ペルガモの町は性的に堕落した偶像を拝む町でした。しかしこの町にもイエスを信じる人々は居ました。これは現代社会にもある光景です。

精神的な堕落が進み、個人や組織の権威主義社会がはびこる中で、真理を求めてうめく人々は今もいます。そのうめきに対処する解決策は、聖書と聖書の神に立ち返ることです。

いまこそ私たちは神の言葉に立ち返った歩みが必要なのです。

あなたがキリスト者なら、今日もこの方の言葉によっていのちを受けましょう。イエスは天からのまことの食物です。この方によって生きましょう。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方との交わりの無い所にいのちはありません。








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2010年08月12日

黙示録の7つの教会まとめ その3

 黙示録の2章3章に出て来る7つの教会についての続きです。今日は2番目に出て来るスミルナの教会についてです。この教会は7つの教会のうち、キリストから叱責を受けなかった2つの教会の一つです。

スミルナはローマの女神の神殿のあった町で、ローマ皇帝に対しての信仰が特に強かった場所です。それゆえにキリスト者に対する迫害も強かったようです。事実、スミルナ教会の教主であったポリュカルポスはAD156年に、総督の命令を無視して信仰告白をしたため、他の11人のキリスト者とともに火刑に処せられたと伝えられています。

そして神学的にスミルナの教会に対するキリストの言葉は、教会史のAD100年ごろから312年ごろを指すとされています。この312年10月には、当時のローマ皇帝コンスタンティヌス一世がキリスト教徒に対する迫害をやめ、翌年には積極的に保護することを決めました。

同時にこの聖句は、現在も迫害を受けている教会に対する預言であると解釈されます。

以下に黙示録2章8節から11節を引用します:

:8 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
:9 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
:10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
:11 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』


 9節でキリストは、スミルナの教会に対する迫害とその渦中にあるスミルナのキリスト者たちの有り様を「知っている」と述べています。
全てのことが神の前では明らかです。私たち人間は苦しい目に遇ったときに「なぜだ。どうしてだ。」などと犯人探しに奔走します。しかし神はその一つ一つの細かい事柄をご存知です。そして8節にあるようにこの神は、「初めであり、終わりである方」です。私たち個人個人の人生のストーリーをすべて委ねるに足る方です。
スミルナの教会に対するキリストの現れ方と御言葉は、辛い目に遇っている全ての人に対する慰めのメッセージです。

9節には偽ユダヤ人が出てきます。当時のスミルナにはキリストに従わないユダヤ人のユダヤ教徒がおり、キリストは彼らの群れを「サタンの会衆」と呼んでいます。
神学的な定説ではこれを現代に当てはめた場合、「クリスチャン」と自称してはいるもののそうではない者たちとなります。

それと同時に私は、ユダヤ教徒でもなく血統的なユダヤ人でもないのにユダヤ人と自称している「ハザール人」(アシュケナージユダヤ人)もこの偽ユダヤ人に入ると解釈しています。むしろ世界中を牛耳っているのがこの偽ユダヤ人なので、現代ではこの個所は彼ら支配エリートらによるキリスト者に対する攻撃と捉えた方が良いのではないかと思います。そしてこの攻撃はこれからさらに激しくなり、この聖句の表現していたことがはっきりとして来ると思います。
(カザール人については以前に書いた記事をご覧ください: 「 カザール王国復活?:密かに始動か?偽ユダヤ人!」http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/142642955.html?1267580388

10節にはスミルナの教会の人々が受ける苦難について預言されています。それは投獄と死です。
キリストは死に至るまでの忠実を要求するとともに、苦しみの期間が十日であるとも言っています。この最も厳しい迫害の「十日」に対する解釈は、この迫害が永遠には続かない短い期間であるとするものと、文字通り十日間我慢することが命じられているとするものがあります。
いずれにせよ、人は苦難の中にあるとその苦しみが永遠にも感じてしまうものです。しかしこの聖句からキリストは、苦しい時は有限であることを教えています。それは現代人に対するメッセージでもあります。

11節には「第二の死」についての言及があります。「第二の死」とは死んで後に魂を地獄の火で焼かれることを意味します。その苦しみは永遠に続きますが、この地上の苦しみを、イエス・キリストとともに乗り越えた者には、「第二の死」はやって来ないと約束されています。

キリストがヨハネ16章33節で述べているように、私たち人間には世にあっては患難があります。しかしキリストはすでに世に勝ったのです。それゆえにキリストにつながるものは勇敢になることができます。

あなたはこの方をすでにあなたの主と告白しましたか。

あなたがキリスト者なら、今日と言う日にこの方との交わりを深め、どんなことにも対処できるキリストの励ましと慰めを受け取りましょう。この方こそ私たちの砦、私たちの喜びです。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方以外にあなたを救う方はいません。人生で最も大切な決断を早く済ませてください。








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2010年08月11日

黙示録の7つの教会まとめ その2

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんが神の祝福を受けますように。

 黙示録の7つの教会のまとめの続きです。今日から個々の教会について見て行きたいと思います。

その前におさらいです。黙示録の7つの教会は実際に小アジアにあった教会です。その教会に対する主イエスの言葉は、キリスト以後から黙示録に記された混乱期(大艱難時代)に至るまでの教会の歴史を預言的に警告したものとされています。それと同時に、全ての時代にこの7つの教会それぞれの特徴を持った教会が存在することを、預言的に示されているとされています。それゆえにこの7つの教会についての主イエスの警告は、いまを生きるキリスト者に対する警告とも言えます。特に神の裁きが下ろうとしている時代にはなおさら学ぶことが多いはずです。

ではまずエペソの教会についてです。黙示録2章1節から7節には以下のようにイエス・キリストの言葉を伝えています:


:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方(イエス・キリスト)が言われる。
:2 「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』


この教会に対する記述は、教会の始まり(およそAD33年)から使徒ヨハネが黙示録を記したAD100年ごろまでの教会の特徴と符合するとされています。
エペソの教会は偽教師を見抜いたことや、忍耐強くキリストの名のゆえに行動したことを褒められています。しかし最初の愛から離れたと非難を受けています。
5節でキリストは彼らに悔い改めを迫っています。もし悔い改めて初めの行いをしないのなら、キリストは直接彼らのところへ行き、その燭台を取り外してしまうと警告しています。燭台とは教会や国としてのイスラエルを象徴します。時には神の言葉の啓示をも意味します。それゆえ私は、燭台を取り除かれた教会を携挙に取り残された教会、あるいは神の啓示の全くなくなってしまった教会であると解釈します。燭台を教会から取り去ってしまうと言うのは大変な警告です。教会運営よりも神に対する愛の方をキリストは重要視していることが分ります。

6節にはエペソの教会の人々が「ニコライ派」の人々を憎んでいるために、イエス・キリストから少し褒められています。ニコライ派を表すギリシャ語には「人々に対する勝利」と言う意味があり、宗教的な専制を表します。初代教会にも神の言葉を振りかざして横暴に振舞った教師たちがいました。主イエスは彼らの行いを「憎んでいる」と言っています。

現代においてはどうでしょうか。エペソの教会は偽教師を排除し、宗教的な専制を嫌いました。しかし神への愛が冷めてきてしまいました。教会組織の維持運営に熱心なあまりに神との個人的な交わりから離れてしまった教会は、エペソの教会に対する主イエスの警告が成就してしまいます。
悔い改めて初めの愛に帰らないと、主イエスの突然の訪れで悲惨な目にあってしまいます。

このことは私たち個人の生活にも当てはまります。主イエスは「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」と述べています(ルカ10章41節)。神に対する愛をないがしろにした全てのことは無駄になります。

どんな宗教的な行いも、あるいはその他のどんな熱心な努力も、神への愛を出発点としない限り惑わしとなってしまいます。熱心であることは美しく見えます。しかしこのエペソの教会に対するイエス・キリストの叱責の大きさを考えると大した美徳ではありません。

あなた自身はいかがでしょうか。世の中で上手く立ち振舞っているゆえに、本当に必要な方との関係をないがしろにしてはいませんか。

あなたがキリスト者なら、今日も心の中心に主イエスをお迎えしましょう。最も大切な方を愛することがすべての出発点です。この方を通して世の中を見つめましょう。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。人生で最も重要な決断を早く済ませ、神の子供としての歩みを初めて下さい。








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2010年08月10日

黙示録の7つの教会まとめ その1

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんに神の祝福がありますように。

 今日から数回に分けて黙示録2章3章の7つの教会について解説して行きたいと思います。今回は「その1」として、7つの教会の概説をいたします。

この7つの教会の預言から示されていることとして、次の3つのことが挙げられます。

第一にキリスト以後の時代の教会の特色です。教会とはキリストの体でありその頭《かしら》はイエス・キリストです(第一コリント12章27節・エペソ5章23節etc.)。このような記述は旧約聖書には無く、それゆえに教会は神の奥義と言われています。
その奥義は、「キリスト以後の時代の信徒は神の神殿であり、神の体の一部になる」と教えます。それゆえ神学者たちは、キリスト以後の時代を特別な恵みの時代として捉えます。そして黙示録にある7つの教会は、キリスト以後から黙示録にある混乱期直前までの時代の全ての教会の特徴であるとされています。つまり現代のキリスト者の群れにも、この7つの教会の特徴が当てはまるということです。

第二に、この7つの教会の預言がそのまま教会の歴史であるということです。つまりキリスト以後の歴史の中で教会は、黙示録2章3章に記された7つの教会の特徴の通りの歩みをしてきたと言うことです。もちろんその7つの特徴的な時期のそれぞれの中にも、7つの教会それぞれの特徴がありました。

最後に第三番目として7つの教会の預言を通して、世の終わりの押し迫った時期の教会の特徴が分ると言うことです。
厳密にいえば聖書は、キリスト以後の時代をすでに世の終わりとしてとらえています。その終わりの、さらに押し迫った時代には黙示録に警告されているような大混乱の時期がやって来ます。7つの教会の7番目の教会についての記述は、その大混乱の時代の到来を見極めるしるしとしての役割を果たします。

7つの教会は以下の順番に、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤです。いずれもいまのトルコ(小アジア地方)に実在した教会です。

このうちイエス・キリストが褒めた教会はたった2つだけです。その他の5つの教会は部分的には褒められても、重大な叱責を受けて悔い改めを迫られています。

褒められている教会は二番目に登場したスミルナの教会と、6番目に登場したフィラデルフィヤの教会です。そのうちスミルナの教会は迫害の中にありました。それゆえイエスは「死に至るまで忠実でありなさい」と励ましています(2章10節)。
一方フィラデルフィヤの教会は、「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」と言われています(3章10節)」。この個所で使われているギリシャ語の前置詞の「エク」と言う単語は、日本語には現れていませんが英語ではfromと言う単語と同じ意味です。日本語に直すと苦難の時「から」と言う意味に使われますが、この単語は苦難の時に「前もって教会を苦難の外に出して」守るという意味を含んでいます。もし神がこのフィラデルフィヤの教会を「艱難の中で」守ると表現したかったのなら「エク」ではなく「ディア」と言う前置詞を使ったはずです。なぜなら「ディア」と言う前置詞は「〜を通して」と言う意味を含むからです。このことから私は、携挙が大艱難時代前であるとする説を支持します。(携挙についてはここでは説明しません。)
ついでに言えばこのフィラデルフィヤの教会は、主イエスがルカ21章36節で次のように述べていることの成就となります:

しかし、あなたがたは、やがて起ろうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子(イエス・キリスト)の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。


 携挙の時期は極めて微妙な問題なので、私もここで自説を強調することはしません。間違っているかもしれないからです。ただ今のところ私はこのように信じていると言うことです。

 7つの教会のうち、艱難に会わないことが述べられている教会はたった一つであることは注目すべきです。それ以外の教会は携挙の直前まで迫害に会っているか、あるいは携挙の恵みにあずかることが出来ないかのどちらかです。

特にイエスより叱責されている5つの教会に対するイエスの言葉は、彼らが携挙に取り残され艱難に遇うことを想像させます。詳しくは後の稿に譲ります。

一方、「教会はキリストの体なのだから、神が体の一部を地上に残すのはおかしい」と言う議論があります。その説を支持する人々はローマ10章13節の「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」と言う言葉より、キリスト者はすべて艱難の前に救いだされ、天に引き上げられる(携挙される)と主張します。そしてもしキリストを悲しませるような歩みを地上でしていたのなら、第一ヨハネ2章28節の御言葉で警告された、神の「御前前で恥じ入る」ことが成就すると主張します。

しかし携挙で取り残されるキリスト者がいないとなると、黙示録の後の章に言及されている迫害されるキリスト者が誰なのかという問題を生じてしまいます。それとともに「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言うものがみな天の御国に入るわけではない」と言う主イエスの言葉も成就しなくなります(マタイ7章21節〜23節)。

ここで救いと携挙は別であると考えると、これらの全ての聖句が成就することが納得できます。救いはイエス・キリストに対する信仰のみです。イエスを救い主である神、キリストとして受け入れれば救いを受けます。しかし携挙と言う、生きたまま天に引き上げられる恵みにあずかることができるかどうかはまた別の問題です。例えキリストを信じてはいても、心の中心にキリスト以外の何かがあれば、携挙の瞬間に神は引き上げることができなくなる(その人が携挙の恵みを受けることができなくなる)と言うことです。しかし救いは失っては居ないので、ローマ10章13節は成就したままです。

いずれにせよいま私たちは世の終わりの押し迫った時代にいることは確実です。私たちには今日と言う日のこの瞬間に、主イエスを心の中心に迎える必要があるのです。

あなたはこの方との関係をすでに持っていますか。

あなたがキリスト者なら、今日と言う日のあらゆる瞬間の中で神との交わりを深めましょう。全てのことを神を通して見、祝福を受けましょう。この方こそ私たちの喜び、私たちのいのちです。

あなたがまだこの方との関係を持っていないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方以外に救いはありません。人生で最も重要な決断を先延ばしにしないでください。








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2010年07月30日

ペットは死後どうなるのか

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんが神の祝福を受けますように。

 直接、あるいはメールやコメントの書き込みで、「動物は天国に行くのかどうか」と言う質問を複数の方から頂きました。他にも多くの方々が同じ疑問を抱いているのだと思います。何度かこの問題に接して聖句を調べているうちに、私の解釈も確信を伴うものとなって来ました。質問を下さった方々に感謝をしています。今日はその祝福のおすそわけをすることによって神に栄光をお返しすることにします。

まず最初にはっきりしていることから述べます。それは動物は地獄に落ちはしないということです。なぜなら罪を犯していないからです。

ローマ8章19節から22節には、神の子供たちであるキリスト者の出現を、被造物が「切実な思いで」待っていると記されています。そして現在彼ら被造物が「虚無に服し」ているとも述べられています。天使が虚無に服しているという記述は聖書にはありません。それゆえにキリスト者の出現を待ち望む被造物が、天使たちではないことが分ります。そしてこの被造物には「思い」があることから、山や大地や海のような被造物でもないことも分ります。

そのことを踏まえて以下にローマ8章19節から22節を引用します:

(引用はじめ)
 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
(引用終わり)


 この聖句から、動物たちが人の罪の影響を受けて虚無に服したのは主によることが分ります。人の罪の影響が動物たちにも及んだと言う意味です。ところがこの聖句は彼ら被造物にも「望みがある」こと、そしてその望みのゆえに彼らは神の子供たち、すなわちキリスト者の現れを待ち望んでいることが分ります。

この望みをこの聖句は「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」ることだと述べています。この聖句から判断して、私はペットも天国に行けるのだと解釈しています。なぜなら彼ら被造物が滅びの束縛から解放される時とは、肉体の束縛から解放される時だからです。生きている間に飼い主がキリスト者になれば、彼らペットも「神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」ることになります。

ではすべての動物が天国に行くのでしょうか。そのことについて私は懐疑的です。なぜなら全ての動物が人間と接点があるとは限らないからです。

創世記1章には天地創造の記述があります。その中で人間がつくられたのは6日目で、その他の動物がつくられたのは5日目です。(神がその他の動物の増え方について定めたのは6日目です。)そして2章には全ての被造物を前にして、神と人との関係が述べられています。このことから、誤解を恐れずに述べると、全ての被造物は人間のため、(人間が管理するため)に創られたと解釈することができます。もちろんそれで人間が自然を破壊して、傍若無人に振舞って良いということでは有りません。

話を動物と天国に戻します。現在ジャングルにもアフリカのサバンナにも、人間と直接関係を持たない動物は沢山います。それらは生態系の維持には欠かせない存在ですが、被造物全体のシステムの中に存在するだけで、私たち人間の個人個人の人生には直接関係しません。そのような動物が死後に天国に行くかと問われれば、否と答えます。もちろん地獄には落ちませんが、天国に行く必要が無いと感じます。

神は天地を人間のために、人間が神と交わり人と交わる場として創りました。地は人の罪により汚れてしまいましたが、いまもその役割は変わりません。つまり動物は人間のために創られました。特にペットは私たち人間が愛を表現するための“愛玩”動物です。それゆえ私はペットは天国に行くと考えます。しかし一つの条件をあなたが受け入れればの話です。

先ほど引用したローマ書の聖句には私たちのペットが「切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいる」と記されています。神の子供となる条件はただ一つ。私たちがイエス・キリストを信じ受け入れているかどうかです。

イエス・キリストはあなたの罪のために十字架に付けられました。あなたが受ける罰をすべて引き受けて下さったのです。そしてイエスは死後三日目によみがえられました。これは今を生きる人々が、神につながることによって、よみがえりのいのちを受け取るためです。あなたのペットはそれを「切実な思いで」待ち望んでいます。

あなたがイエスを救い主として受け入れることは神の望みです。そしてあなたのペットもそれを望んでいます。

神である救い主、イエス・キリストを信じ受け入れ、あなたもいま天国の住民になって下さい。それはあなたとあなたのペットの関係がさらに深まり、神の国の栄光の自由の中に入れられることを約束します。

あなたがキリスト者なら、今日という日にあらためてこの方との交わりを深め、あなたの周りの被造物からのメッセージを受け取りましょう。神はあらゆるものを通してあなたに語りかけます。心を静めて神の声を聞きましょう。

あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。人は罪を犯しました。それゆえにイエス・キリストはあなたのための罪のいけにえとなって下さいました。この方を今日受け入れて、神との和解を済ませて下さい。それはすべての動物の望みです。








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2010年01月05日

ダニエル書2章の預言解釈について

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんの上に、神の祝福が豊かにありますように。

 アメリカのテレビ伝道者のジャック・ヴァン・インペ氏がダニエル書2章に出てくる大きな像の解釈を、現代の世界事情に照らし合わせて解説していました。私も大きくうなずけるものであったのでご紹介します。(Jack Van Impe Presents 英語 12月12日放送分 http://www.jvim.com/ )

 聖書にあまり詳しくない方のために少し解説をすると、この像は後の7章に出てくる4頭の大きな獣と同じことを象徴しているとされています。それは中東を中心とした世界帝国の興亡についてです。そして特に重要なのは、獣で言えば4頭目、像で言えば足の部分についてです。なぜならそれは聖書時代に成就した部分の最後であり、そしてこの世の終わりについて預言的に警告されている部分だからです。それは黙示録13章以降に登場する獣の国であり、世の終わりに再び成就する箇所であるということです。

 一般的にはこの像の足の部分に対する解釈は、ローマ帝国と解されています。ローマ帝国はたくさんの民族を支配した大きな帝国でした。そして足が2本であるように、ローマ帝国は歴史的に東西に分裂された事実があります。ローマ帝国は7章にある4番目の獣のように荒々しく他国を支配しました。そして世の終わりの時にこの帝国は復活し、再びあらゆる国を包括するようになると解釈されています。

 そしてこの国は、神の手で切り出された岩、イエス・キリストによって打ち砕かれるとされています。その解釈の中心となる聖句は以下のダニエル書2章41節〜45節です。ここでは預言者ダニエルはバビロンの王に彼の見た夢の解き明かしをしています。したがって話しているのはダニエルで、「あなた」とは王のことです。

(引用始め)
あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。
(引用終わり)


 ジャック・ヴァン・インペ氏は、通常人々はこの像の足の指が十本であることと、7章の第4の獣の角が10本であることにばかり注目してしまうと述べます。このことより、復興ローマ帝国の世界支配が世界を10の地域に分けるとされています。氏はそれよりも重要なのは、復興したローマ帝国も2本の足を持つことに注目するべきだと語っていました。つまり、通常の解釈で言われているヨーロッパ合衆国の誕生だけではなく、もう一つの帝国が誕生し、2つのグループで世界を支配するということでした。氏はそのもう一つの、これから出現する世界帝国とは、トルコを中心としたイスラム帝国なのだと述べていました。

 確かに田中宇氏のニュースレターによると、トルコは中東でのヘゲモニーを勝ち取りつつあるようです。例えばトルコは他のイスラム諸国とイスラエルの緩衝役になり得る立場であることが上げられます。他のイスラム諸国と違い、トルコはイスラエルとも比較的近い関係にあります。イスラエルもトルコを無視することが出来ないでしょう。しかもトルコは旧ユーゴなどとともにEU加盟国候補として正式に認められています。巨大な像の足の部分として、ヨーロッパと共にアラブ連合が世界支配に大きな役割を果たすことになるのかもしれません。

 終末に対する預言の解釈は諸説あります。レムナント教会のエレミヤ牧師の解釈は以前にもご紹介しました。それによると黙示録13章以降に出てくる獣の国はアメリカであり、このダニエル書2章の足の部分もアメリカということになります。(黙示録セミナー参加報告 その2http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/128533843.html?1253519494

 ここで重要なのは神学的預言解釈の妥当性の比較ではありません。重要なのは聖書を通して私たちが神とコミュニケートすることです。一貫して言えることは、聖書の警告は現代の私たちに対する警告です。

 私たちはすでに世の終わりの時期にいます。目を見開いて世の中を見、聖書から神の語り掛けを受けましょう。

 あなたがキリスト者なら、今日も心の中心に主イエスをお招きし、すべてのことをこの方を通して見ましょう。この方にしがみつくことのみが私たちの力です。

 あなたがまだこの方を知らないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方との交わりの内に入り、あなたの安全を早く確保してください。



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2009年12月25日

サタンの弱点

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんの上に、神の豊かな祝福がありますように。

 サタンは存在します。しかし全く恐れることはありません。それは彼の成り立ちか理解することが出来ます。しかしほとんどの人は彼の奴隷です。それは彼の存在を知らないからです。

 サタンを神以上に意識することは彼の思う壺です。しかし彼の弱点を知っておくことは、彼の惑わしを退ける決定的な武器になります。彼の惑わしの力とはウソです。サタンはウソを用いて人を奴隷としています。

 サタンは堕落した天使です。彼が自分の与えられていた職務を超え、自分も神になろうとしたことによって神から退けられ、サタンとなりました(イザヤ14章12節から15節)。したがって彼の影響下にいる人は間違いなくサタンの性質を多かれ少なかれ帯びています。サタンは神を無視し自分を見つめました。神を心の中心とせず、その他のいかなるものでも神以上に信用しようとする人は、全てサタンのウソに騙されているといえます。神以外に頼れる方は無く、神を頼ってこそ人は人同士信用することが出来るのです。

 サタンの巧妙なウソに対抗しようとしてサタンに注目することはよくある間違いです。サタンに対抗するには神を第一にする以外に方法はありません。そしてその上でサタンの弱点である彼の限界について知ることは、霊的な戦いの大きな力となります。新約聖書ヘブル人への手紙1章14節には、天使たちはキリスト者に仕えるために、神によって作られた存在であると述べられています。サタンは自分を神として堕落してしまいましたが、本来の作られた目的以上の力を発揮することはできません。すなわちサタンは、イエス・キリストを信じ受け入れ神と和解をしたキリスト者の意思に反して、悪さをすることは絶対に出来ないのです。

 キリスト者に限らず、人はサタンに騙される時にはサタンに同意をして彼の影響下に入ってしまいます。最初の人アダムとエバがサタンに騙されたのも同じ理屈です。彼らは神よりもサタンの言うことに同意をしてしまい、サタンの影響下に自分から入ってしまいました。サタンのウソに騙されたのです。このウソに騙されないために、私たちは神を常に心の中心にお迎えする必要があります。

 実に単純なことですが、サタンのウソに騙されないためには神を第一にする以外に方法はありません。サタンのウソは終始私たちを神から離そうとします。私たちが神から目をそらしてその他のいかなるものに注目したとしても、それはサタンの惑わしの影響を受けた行為です。サタンの戦略は私たちを神から離そうとすることです。ならば逆にいえば、私たちが神から決して目をそらさない歩みをすることが、私たちをサタンの影響から遠ざけます。

 私たちが病気をすれば痛みや苦しみが体を走ります。時にはなぜこうなったのかと自分や他人の中に犯人や原因を探そうとします。そこにサタンの付け入る隙があるのです。理由はどうあれ今病に苦しんでいる人は、その病を通して神と交わるべきなのです。

 私たちはまた、他人や自分にがっかりしたり悲しんだり、あるいは怒りを覚えたりもします。しかし他人や自分にその感情をぶつけることはサタンの惑わしの絶好のチャンスです。彼はここぞとばかりにあなたを神から離そうとし、あらゆるウソによってあなたが神以外のほかのものに注目してしまうようにします。しかしここでも、理由はどうあれ私たちのこころに思い浮かんだ感情を通して、神と交わるべきなのです。

 神と交わるところには自由があると聖書は教えます。どんなにマイナスの状態にあったとしても、私たちはそれを神との交わりの時と変えるのです。そうすることによって私たちはサタンの奴隷となることから解放され自由となります。この世はサタンが罰せられる時が来るまで、彼の影響下にあります。しかし神と和解をし、神とともに歩む者にはこの地上こそが生きるに値する素晴らしい天の御国となるのです。

 あなたもイエス・キリストを信じることによって神と和解をし、常に神を中心にしてこの地上を天国として歩みましょう。

 あなたがキリスト者なら、どんな時にも神を見つめつづけ、この方によって力を受けましょう。主イエスを喜ぶことは私たちの力です。

 あなたがまだこの方との和解を済ませていないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方こそあなたを救う方です。一刻も早くこの方の下に来てください。


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2009年12月18日

ちょっと恐い世の終わりの話

 新約聖書の第2テサロニケ1章8節9節に、世の終わりの神の裁きについて次のような記述があります:

そのとき主(神)は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。


 主イエスの福音に従わない人々に神が罰を与えるのは理解できます。しかし、神を知らない人々にも同じ罰が与えられるということはどういうことでしょうか。神を拒絶したわけではないのに、知らないだけで罰せられるのでしょうか。

 この疑問は当然な疑問です。聖書はにはその答えも記されています。しかしまず結論から言いましょう。そのことを説明するのに、例えば法律のことで考えてみるとこうなります。例え人を殺してはいけないという法律を知らなくても、人を殺せば犯罪になります。同じように神を受け入れなければ滅びることを知らなくても、神を受け入れなければ滅びに至ります。神を知らないことはどうしても、永遠の滅びにつながってしまうのです。

 しかし少しだけ安心しても良いと思われます。この記述は、神学的に言う世の終わりの末期のことです。最後の最後で神を知らない人は永遠の滅びに直行するということです。逆に言えば、最後の最後に至るまで、世の中には神を知らない人々とキリストの救いを拒絶する人々が居続けることになります。そしてその頃になると、神から惑わす力が働き、積極的に神を求めないものはますます神から離れ、神を知らないまま滅びに至るのです。続く聖句では以下のように預言されています(2章10節〜12節):

また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。


 世の終わりの押し迫る頃、悪い霊によって欺きが行われます。それは真理を受け入れなかったからです。そしてさらに、神の惑わしによって彼らは完全に神から離れたものとなるのです。それがイエス・キリストを知って拒絶したか、知らずにいるのかは問題ではありません。真理を求めなかったことが問題なのです。真理とはイエス・キリストのことです(ヨハネ14章6節)。

 旧約聖書の箴言8章17節で神は、「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」と語ります。誰でも真理を探究する者はキリストを見出し、それを怠れば神からますます離れていきます。

 しかし今の時代でもそう安心はしていられないかもしれません。なぜなら、ローマ書1章20節には次のようにあるからです:

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。


 約2000年前の当時から神についての啓示は自然界を見ればはっきりと分かり、弁解の余地は無いと聖書は語ります。人間のいのちには始めがあり終わりがあるように、この世界にも始めがあり終わりがあります。私たちはこの世での一時的ないのちの中で、永遠の世界をどこで過ごすのかを決断する必要があるのです。

 あなたはイエス・キリストが与える神との和解を受け入れましたか。

 まだ時間があると思えるのならなおさら早く神と和解をして下さい。ひょっとしたら私たちにはそんなに時間は多く残されていないのかも知れません。

 あなたがキリスト者なら、今日も主イエスとの交わりの内にいのちを受け取りましょう。この方との交わりが私たちを生かし、私たちの心を神の愛で満たします。

 あなたがまだこの方との関係を持たないのであれば、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。

 今日もこのブログを訪れて下さり有り難うございます。

 皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの真理の光が輝きますように。




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2009年12月14日

善悪の惑わし

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんの上に、神の愛といのちが豊かに降り注ぎますように。

 聖書を知らない人々は言うに及ばず、クリスチャンでさえも惑わされている問題があります。それは善悪の問題です。

 創世記2章3章には人の創造と堕落の歴史が記してあります。その堕落はそれよりも以前から堕落していた天使、サタンの誘惑によります。この誘惑により人は罪を犯し、神の戒めを破って善悪の知識の木の実を食べてしまいました。この罪により人は死ぬものとなり、いのちから遠ざかりました。そして善悪の知識を軸に物事を判断するようになったのです。

 善悪の判断は世の中で重要な役割を果たします。それゆえサタンは今でもこの善悪の知識を用いて人を惑わします。問題の本質は善悪ではありません。本当の問題とは、善悪の知識の木の実を食べてしまったために入り込んだ死と、手放してしまったいのちの問題です。このいのちと死の問題に私たちが気付かないようにすることが、いまも働くサタンの戦略の一つです。

 分かりやすい身近な例で言えば、子供が悪いことをしたときに罰することは善いことです。悪い人にならないように躾ることは重要な親の役目です。しかし躾と称して子供が萎縮するようなことをするのは惑わしです。重要なのは善悪ではなく、いのちか死かの問題です。子供のこころに死が入り込むような躾は、例え善悪を基準にしてはいてももはやサタンに惑わされていると言えるでしょう。

 分かりにくいですが、とても大きな惑わしの例はヒューマニズムです。人道的見地からとか、博愛主義に則ってなどと言いますが、人類中心で善悪を基準にしているヒューマニズムは間違いなくサタンの大きな惑わしの手段です。ヒューマニズム的な考え方から言えば、宗教は和合し理解するべきであり、キリスト教は偏狭な一神教になってしまいます。ジョン・レノンの「イマジン」は国も政府も国境も無く、戦争も殺し合いも無い世界を訴えますが、同時に宗教も神も無く天国も地獄も救いも無い世界が理想なのだと訴えます。

 この善悪の問題が、いのちと死の問題に目くらましをしているのは、思想や社会の一部の出来事ではなく、すでに私たちの日常にはびこっているのが現状です。私たちはついつい善悪で判断をしがちです。それは罪を犯して禁断の木の実を食べてしまった人の特性です。私たちの日常の問題は善悪ではなく、いのちか死かで判断されるべきです。

以前テレビでいじめの問題を取り上げていました。数十年前の番組ですので、そのころの子供同士のいじめはいまよりももっと直接的暴力的です。番組ではいじめっ子に、なぜいじめられる子に暴力を振るうのかとインタビューしてました。答えはその子の為だそうです。その子が忘れ物をしたり、宿題を忘れたり、成績が悪いのを理由に、いじめをするのだそうです。いじめっ子の心にはしっかりとした善悪の理由付けがあったようです。すでにサタンは善悪を基準とした惑わしを、子どもたちの心にまで持ち込んでいるようです。

 しかしこの惑わしの問題は普段は絶対に人には意識され得ません。人は善悪ではなく、命か死かで物事を意識することができないのです。なぜなら、人にはすでにいのちが無いからです。聖書は人は死を帯びたもの、すなわちすでに死んでいるものと捉えます。この死の問題を解決し、いのちを帯びるためには、神との和解が必要です。神に至る道であり、唯一の真理であり、いのちである方、イエス・キリストを受け入れた時、私たちは死の世界からいのちの世界に移されます。そこから全てがスタートするべきなのです。

 人がキリストによって神と和解をしたとき、善か悪ではなく、いのちか死かの問題についての理解が現れます。それは聖霊なる神を通して気づかせられるものであって、私たちから出てくるものではありません(第一ヨハネ2章27節)。この神こそ私たちのいのちです。この神につながること無しには、私たちは善か悪かの問題に惑わされてしまい、ものごとの本質であるいのちと死の問題を見ることが出来ません。

 あなたもイエス・キリストによって神と和解をし、いのちを身に帯びる者となってください。

 あなたがキリスト者なら、今日もいのちの源である神とつながり、いのちと死の問題を見極めていのちを選びつづけましょう。この方こそ私たちの知恵です。

 あなたがまだこの方とつながりを持たないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方以外にあなたをいのちに溢れさせることのできる方は居ません。





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2009年11月27日

ろばの子を“ほどく”のは悪魔のしわざを“打ちこわす”ため?

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんの上に、神の与えるいのちが豊かに降り注ぎますように。

 イエス・キリストは十字架につく一週間前に、ろばの子に乗ってエルサレムに入りました。福音書でもこの時の出来事を、ゼカリヤ書9章9節の成就として記述しています。マルコ福音書にはイエスが以下のように述べたと記されています(11章2節):

向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。


 イエスが乗ったのはまだ誰も乗ったことの無いろばの子でした。強そうな雄牛や精悍な馬など、救い主が乗るべき動物なら、まだ他にもそれらしい、雄雄しく格好良い動物がいたでしょう。しかし神の子イエスが乗るべきだったのはろばの子でした。それは単に預言の成就だけを意味するのではありません。このろばの子はキリストを信じる者に例えられます。

 強そうな人や賢い人、役に立つ人は世に多いです。しかしキリストが選んだのはろばの子でした。このろばの子は荷物を運んだことも無く役に立ったためしがありません。しかも子ろばは、キリストに召される前はつながれていました。イエス・キリストはこのろばを「ほどいて」連れてくるように弟子たちに命じました。このとき「ほどく」という意味で使われているギリシャ語は「ルーオウ」と言う単語で、第一ヨハネの手紙3章8節の以下の箇所でも使われている単語です:

神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。


 この「打ちこわす」という意味で使われている単語は「ルーオウ」です。私たち人間は誰もが神を知らずにこの世をさまよっていました。ある人は自分をお金に縛り付け、またある人は異性に縛り付け、また他の人は地位や名誉やその他さまざまなものに自分を縛り付けています。これらはすべてこの世の君とも呼ばれる悪魔のしわざです。悪魔は自分が人間の神になろうとしてこの世で私たちを惑わしています。

 しかし神の子イエス・キリストは悪魔につながれた人間を解き放ち、そのしわざを打ちこわしました。私たちはイエス・キリストによって自由になったのです。しかもこの単語はマタイ16章19節では以下のように「解く」という意味でも用いられています。そしてこの聖句は、キリストを信じるすべての人々に与えられている約束の一つです:

わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。


 イエス・キリストはサタンに縛られていた人類を解放し、神の祝福を解き放つために来られました。あなたの罪のために死なれたイエスは、あなたが活き活きと生きるために死を打ち破ってよみがえり、永遠のいのちをあなたに提供してくれています。

ローマ書8章32節
私たちすべてのために、ご自分の御子(イエス・キリスト)をさえ惜しまずに死に渡された方(神)が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。


 あなたもイエス・キリストによって自由と解放を得て、神の与えるいのちを豊かに受け取ってください。

 あなたがキリスト者なら今日もこの方との交わりを深め、この方からいのちを受け取りましょう。祝福の鍵はすでにあなたに与えられています。あなたを解放したイエスは、今日もいのちを豊かに与えてくださいます。

 あなたがまだこの方との関係を築いていないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。この方以外の何者もあなたを自由にはしません。この方の救いを受け取って、いのち豊かに生きてください。







 
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2009年11月25日

あなたについても言えるかも?!:今も続くユダヤ人の奇跡

 旧約聖書にはイエス・キリストに関する預言が沢山あります。キリストに関するそれらの預言には、すでに成就したものもあるし、これから成就するものもあります。私はクリスチャンとして思うのですが、現代のユダヤ教徒がなぜそれらの預言を見てイエスをキリストであると信じられないのか不思議に思うことが有ります。イザヤ書53章もそのような預言の一つです。

 この預言はイエスの生まれる750年ほども前に記されたものです。それゆえに当時の人々がその意味を理解できなかったことは当然だったでしょう。その後、イエスの時代になり、その時代の人々もこの預言の意味がはっきりと見えなかったことも、あり得ると思います。しかし現代の情報化社会にあって、しかも旧約聖書を聖典としているユダヤ教徒が、この預言の人物がイエス・キリストであると理解できないことは、不思議と言うより奇跡に近いと思います。以下にその実際の箇所を引用しますが、長いので4節から11節までの引用とします:

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。


 この預言を読んでユダヤ人がイエスを、イスラエル民族の救世主であると信じることが出来ないのは不思議です。しかし彼らの指導者たちがイエスを救世主であると"知っている"様であることは、いくつかのエピソードによって分かります。

 ユダヤ人は毎週土曜日に安息日礼拝をします。その際に律法(トーラ)と呼ばれるモーセ五書と、他の旧約聖書の朗読をします。この朗読は長い間の伝統にのっとって行われるもので、1年間の律法の朗読箇所が週ごとに決まっています。この伝統はイエス・キリストも従ったもので、イエスがイザヤ書61章の一部をシナゴーグで朗読している箇所がルカ福音書に記されています(4章16節から19節)。

 このような伝統にのっとって、現在のユダヤ人は旧約聖書を一通り朗読できるようになっています。しかしどう言う訳かシナゴーグではイザヤ書53章の朗読は無いそうです。

 ほかにもこんなエピソードがあります。20世紀の中盤頃からユダヤ人の間で、イエスをキリストであると信じ受け入れるムーブメントが起こり始めました。そんな風潮の中であるユダヤ人がイザヤ書53章の人物について、純粋に知的な好奇心を抱いたのでラビを尋ねて質問をしたそうです。そのときに尋ねたラビの部屋には他にも何人かのラビたちが居たそうです。そこでその人が「イザヤ書53章についてなんですが…」と質問を切り出したとたんに、部屋にいたラビたちが全員慌てて、「それはイエスじゃないんだ」と躍起になって否定し出したそうです。その反応を見てそのユダヤ人は、一瞬にしてイエスが預言された救世主であることを理解し信じたそうです。

 イエスについての知識があっても、それを信じる信仰が有るのか無いのかは大違いです。新約聖書のエペソ書2章8節には、信仰が神からの一方的なプレゼントであることを次のように表現しています:

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。


 イエスを救い主、キリストであると信じることが出来るのは恵みです。この恵みは全ての人に提供されている神のプレゼントです。あなたがこの方を信じることが出来るのは神の奇跡です。あなたもこの神の奇跡のプレゼントを受け取って、恵みの中を歩んでください。

 あなたがキリスト者なら、あなたの内に植えられた奇跡を十分に味わい、今日も恵みを主から受け取りましょう。この方こそ私たちの道であり、真理であり、いのちです。

 あなたがまだこの方との関係を持たないのであれば、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。まだ時間のあるうちに、早くあなたの内に奇跡を起こし、恵みを受け取ってください。

 今日もこのブログを訪れて下さって有り難うございます。

 皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの恵みが大いに降り注ぎますように。










神と人の本当の関係.WAV




(「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html




posted by モトイ at 12:27| 千葉 ☔| Comment(9) | 預言講解 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月24日

私たちにはもう時間がないのかも知れない

お早うございます。
モトイです。

今日の皆さんの上に、神の豊かな祝福がありますように。

 ユダヤ民族やイスラエルは、終末の時代の時計であると言われます。1948年にイスラエルは国家として再建されました。多くの聖書学者たちはそれまで、2000年以上にも渡って消滅していた国家であるイスラエルが再建されるとは考えませんでした。したがって聖書の記述にある終末の時代のイスラエルの苦難は、キリスト教会に対する戒めであると解釈していました。聖書学者が聖書の記述を信じることが出来なかったためです。

 ところがイスラエルは再建されました。そればかりか、神殿の丘を含めた東エルサレムが1967年にユダヤ人の支配下に戻され、聖書の終末預言が文字通り成就する土台が整ってしまいました。今は聖書の預言のすべてが、無理な解釈のし直しをする必要もなく、そのまま成就する時代であると考えられています。

 そんな聖書の預言の一つに、イスラエル民族がイエス・キリストを国家として受け入れると言う預言がいくつかあります。ここでは新約聖書のローマ人への手紙と、旧約聖書のゼカリヤ書を取り上げて、イスラエルがイエスを受け入れる時期について解説してみます。

 ローマ人への手紙11章25節26節には次のようにあります:

兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。」


 新約聖書はイエス・キリストの十字架の後にかかれました。したがってここでイスラエル人の一部がかたくなになったと言うのは、彼らがイエスを神の救世主、メシアであると認めなかったことを指します。以後、イエス・キリストはイスラエル民族ではなくそれ以外の異邦人に受け入れられて行ったのは、歴史が証明している事実です。そしてこれから後の時代になると、異邦人の救いのときが終わりを迎えます。

 この「異邦人の完成のなる時」の解釈は難しい所です。しかし一般的には、黙示録にあるイスラエルの艱難の時代の異邦人が神をのろっていることを考え合わせ、後の世になると地上に居る異邦人がイエス・キリストの救いを完全に拒絶する時代が来ると解釈します。そのような時代になると今度は今とは逆に、イスラエル民族がイエス・キリストを信じ受け入れるようになると聖書は預言しています。

 ではその時期についてですが、ゼカリヤ書12章9節10節はそのヒントになる預言の箇所です。以下の記述はイエス・キリストが十字架につくおよそ500年も前に預言されたものです。:

その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。


 「自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見」とはイエス・キリストのことです。当時のイスラエル人には理解できなかった預言が、現代の私たちには良く分かります。これも聖書の不思議さのひとつといえるでしょう。

イスラエル民族はこの時、孤軍奮闘しますが、絶体絶命の危機に陥っています。しかしエゼキエル書38章39章によればこの戦いは神の奇跡により大勝利を収めます。自分たちの努力で勝つならば、ちょっとは誇ることが出来るでしょう。しかしこの時の戦いではイスラエルにはまったく勝ち目はありません。そこで神の業が働き大勝利します。この時イスラエル人は、神の啓示によってイエス・キリストが神であることを認めざるを得なくなります。

 そしてエゼキエル書38章39章には、このときの戦いに「メシェクとトバルの大首長、ゴク」と、「ペルシャ」の連合軍が攻めてくると預言されています。この「メシェクとトバルの大首長、ゴク」とは地理的な解釈からロシアであるとされ、「ペルシャ」は歴史的な解釈でイランであるとされています。

 先のローマ人への手紙における「異邦人の完成のなる時」という預言は、このエゼキエル書の戦いの時にはすでに成就していることになります。なぜならこの戦いにおいてイスラエルはイエス・キリストを神と認めることになるからです。

 世の中ではイスラエルとイランの戦争の噂がささやかれています。この噂はすでに何年も前からあるものです。いつ戦争になってもおかしくないイスラエルとイランの緊張関係が、今この瞬間も続いています。これは聖書の預言の成就が近いことを意味しています。

 永遠に続くと思える世の中に目を凝らしてみれば、終末のしるしはすでに現れています。

 私たちは今こそ聖書と聖書の神に立ち返った歩みが必要なのです。

 あなたもイエス・キリストを信じ受け入れ、あなたの安全を一刻も早く確立してください。

 あなたがキリスト者なら、今日もこの方にしっかりとしがみつき、この方とのさらに深い交わりを求めましょう。イエス・キリストこそ私たちの砦です。この方と共にある希望をしっかりと握って歩みましょう。

 あなたがまだこの方との関係を持たないのであれば、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。もう時間はほとんど残されていないのかも知れません。まだ時間があるうちに早くあなたの安全を確保してください。




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2009年11月18日

世の終わりの惑わし

 あるカルト宗教の教祖は自分がイエス・キリストの兄だと名乗っているそうです。そしてキリストは人類を救済しようとしたが失敗し、十字架に付けられてしまったので、仕方なく兄である自分が人類救済を果たしに地上にやって来たと言っているのだそうです。まるでウルトラ三兄弟のような話です。

 よくもまあそんな作り話が出来ると思いますが、それを信じている人々が何百万人もいることにはさらに驚かされます。まともに聖書を読めば絶対にそんなことには騙されないと思いますが、実はこのことも世の終わりのしるしとしてあらかじめ聖書に書かれていることです。マタイ24章3節から5節には以下のように記されてあります:

イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。


 私たちはすでにこの前兆の現れている時代に生きています。先のカルト宗教の創始者だけではなく、小さい者ではインターネットで検索すればそんな人はごろごろ出てきます。2005年の衆議院総選挙でもそんな人が立候補していました。その人は自分のホームページの掲示板で「自分こそ再臨のイエスである」と主張していました。ところがその掲示板に誰かにいたずらで、「あなたは再臨のイエスではありません。なぜなら私こそ再臨のイエスだからです」という書き込みをされ、再臨のイエスと名乗る彼は怒りに満ちた品性の低い返事を書き込んで、その狂人振りをあらわにしていました。まさしく世は狂人の狂い咲きの様相を呈しています。

 イエスは「人に惑わされないように気をつけなさい」と警告しています。このことは多くの人々が惑わされることを意味しています。別の箇所で聖書は次のように警告しています(第2テサロニケ2章3節):

だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。


この「主の日」とは、イエス・キリストの再臨のときを指します。この日には全ての悪に終止符が打たれ、神の完全なる統治が始まります。しかしその前に多くの人々が聖書と聖書の神から離れる背教の時が訪れることが預言されています。そして「不法の人」とも「滅びの人」とも呼ばれる人物が登場します。この人は惑わしにあった多くの人々から歓呼の声で迎えられますが、その行き着く先は滅びでしかありません。

 これらのことはもうすでに起こりつつあることです。もし私たちが人を見て自分の行き先を決めるのであれば必ず惑わされます。しかし聖書と聖書の神によって導きを得るのなら、私たちは安全に守られます。

 まだ時間があるように見える今この時にこそ、私たちはイエス・キリストとの関係を築き上げる必要があるのです。

 あなたも聖書と聖書の神、イエス・キリストによって安全を確保してください。

 あなたがキリスト者なら、今日もこの神との交わりを深めましょう。この方こそ私たちの砦です。

 あなたがまだこの方との関係を持たないのなら、今すぐにイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。時間は刻々と過ぎ行きます。ひょっとしたらもう時間が無いのかもしれません。最も重要な決断を後回しにせず、早くキリストを受け入れてください。

 今日もこのブログを訪れて下さり有り難うございます。

 皆さんの上に私の愛する神、主イエス・キリストの平安が豊かに望みますように。



神と人の本当の関係.WAV





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