2011年01月27日

エンデが警告したバビロン経済の崩壊:「エンデの遺言」より

お早うございます。
モトイです。

 ドイツの児童文学作家のミヒャエル・エンデが、現代の市場経済を黙示録に登場するバビロンと絡めて解説しています。NHK出版から出ている「エンデの遺言」の中のエンデの言葉です。聖書解釈としては不正確なところもありますが、エンデの現代社会に対する鋭い洞察力が感じられて興味深いです。

エンデの作品は日本でも人気があります。20年ほど前には「ネバーエンディングストーリー」が映画化され世界中で大ヒットしました。エンデをファンタジー小説の作家だと思っている人もいるかも知れません。代表作の「モモ」は大人の愛読者も多い作品です。その理由は後に述べるように、エンデがこの作品で大人たちにも現代社会への疑問を投げかけているからです。以下にエンデの言葉を引用します(「エンデの遺言」p.35):

(引用はじめ)
「…ヨハネ黙示録にはバビロンの記述があります。そこではバビロンは生物であると同時に大きな都市でもあるとされます。つまり文明です。バビロンは聖書には淫売行為の母と書かれています。神父はそれを性的な方向に解釈するのですが、私はまったく違うことを意味すると思っています。ここで淫売行為が意味することは、本来捧げられるべきものが売買されているということでしょう。性愛とは強制されたり、売買されるものではなく、お互いに捧げるものなのです。バビロンは売買してはいけないものが売買されていることと同義語なのです。ここで現代の世界を見渡せは、私たぢはバビロンの真っ只中にいることに気づくでしょう。現代社会では芸術から宗教まで、売買の観点から見られていないものはひとつもありません。ヨハネ黙示録にはバビロンはすぐに亡びると書かれています。皆が信じられない早さで滅亡すると。
 私の見るところ、現代のお金がもつ本来の問題は、お金自体が商品として売買されていることです。本来、等価代償であるべきお金が、それ自体が商品になったこと、これが決定的な問題です。そのことにおいて、貨幣というもののなかに、貨幣の本質を歪めるものが入るのではないでしょうか。これが核心の問いだと思います。もっとも、これは私の考えであって、経済 学者は別意見かもしれません」
(引用終わり)


 エンデは現代の市場経済が本来売るべきではない物まで売っていると述べ、今私たちがバビロンの真っただ中にいると警告しています。性道徳の乱れや投機的な“マネー”がもたらしたアジア金融危機など、現代社会にはエンデが警告するバビロン的な終末のしるしが沢山あります。

エンデは代表作の「モモ」の中で、時間貯蓄銀行の職員が平和に暮らしている人々から時間を奪って奴隷化してしまう話を描いています。時間貯蓄銀行の職員は「余っている時間を預ければ、私たちが運用して何倍、何十倍もの利子を付けてお返しします」と、言葉巧みに人々を騙します。実は時間貯蓄銀行の職員は人々から時間を奪う時間泥棒で、人々はまんまと騙されて余裕のない奴隷のような生活に陥ってしまうのでした。そしてストーリーは主人公のモモという少女が、知恵の象徴であるカシオペアと言う賢いカメとともに、人々の時間を取り戻すために時間貯蓄銀行と戦う展開へと向かいます。

この作品も映画化されています。私もツタヤで借りて見ました。平和な生活を送っていた人々がちょっとの欲が災いして、せかせかとした毎日を余儀なくされそのうちに人生の目的までも見失っていく様は、余裕のない現代人への戒めのように思えました。

「エンデの遺言」によるとこの作品は単に時間的な余裕についてのエンデの警告ではないのだそうです。実はこの作品の奥深いところには、貨幣経済へのエンデの疑問が盛り込まれているとのことでした。そのことを考え合わせて先ほどのエンデの言葉を振り返れば、彼がどれだけ現代社会の崩壊を真摯に警告していたのかが分ります。

エンデの言うように芸術から宗教まで、現代社会に売買的な視点から見ることのできない物はありません。本来軽々しく扱われるべきでないものまでもが売買されています。性産業の隆盛や行きすぎたマネーゲームはその表れです。エンデの言うように私たちは確かにバビロンの中に居るのかも知れません。

黙示録の18章にはこのバビロンの崩壊が記されています。そしてそれと同時に神がご自分の民にバビロンから離れるようにとの警告を発していることも記されています。

驚くべきことに現在は日本でも、FXなどの金融取引が携帯電話から手軽に行えると、盛んに宣伝されています。まるで「モモ」の中に出て来る時間貯蓄銀行の職員が、「余ったお時間が何倍、何十倍にも膨れ上がって戻って来ます」と言って人々を奴隷にして行く様に似ています。騙されてはいけません。

私たちが目を開けて見るのなら、すでに世の中には終末のしるしがそこかしこに見え隠れしているのが分るはずです。

世の終わりのこの時代に、私たちが本当に必要なのはまことの神との日々の交わりです。あなたにはすでにこの交わりがありますか?

イエス・キリストを信じ受け入れ、神の導きの中で安全を確保して下さい。

あなたがキリスト者なら、今日と言う日の中でまずこの方を礼拝することを第一にしましょう。私たちが一日をこの方に捧げれば、神が私たちの全ての責任を負って下さいます。

あなたがまだこの方との関係をもたないのなら、今すぐイエス・キリストを信じ受け入れることを強くお勧めします。世の中は混とんへ向かいつつあっても、神にある希望は消え失せることはありません。












神と人の本当の関係.WAV





 (「あなたが救われるためには?」:http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/114496759.html


















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posted by モトイ at 05:00| 千葉 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 終末のしるし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして
変な質問をすることをお許しください(^.^)
真理を探していろんなブログを徘徊しています・・・あの考えは嘘!このやりかたは間違い!サタンの罠だ!・・それぞれお互いの誹謗中傷合戦のようで益々わからなくなりました。カルトに騙された経験もあり臆病になってます。
『狭い門 入ろううと努めながら入るものはわずか』を実践してる人は誰ですか?
Posted by すみれ at 2011年01月27日 19:47
すみれさん、はじめまして。ようこそ。

ご質問にお答えする前にまず私の経験を・・・。

私もキリスト者になる前はあちこち徘徊しました。今では危険視されている人の本を呼んでみたり、新興宗教回りをしてみたり、ニューエイジの本はそれこそ山のように読みました。それでもキリストを信じてその後に、聖書にキリストが「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」といい、続けて「わたしにはこの囲いにいない羊がいる(正確な表現ではありませんが)」と言っていることを読みました。

そこで分かったことは、真剣になって「神とは何だ」と探求していたのは、結局キリストの声を聞くための彷徨であったのだということでした。

ですので人ではなく神を求めている者には、神がいずれ時に従ってご自身を現して下さると思います。

私のも含めていろいろなブログは結局はその人の目を通した神の紹介でしょう。なのでフィルターがかかっています。すみれさんには直接聖書を読むことをお勧めします。

さてご質問の「狭い門」ですが、キリストの時代の宗教家は多数派でした。権力も持っていたので彼らに迎合すれば迫害もありませんでした。キリストは彼らの教えに従うことを「広い門」とし、自分に従うことを「狭い門」と教えました。

まず上記の時代背景が大前提です。

聖書の適用をする再に良くあるのは、過激な他教会批判をする小さな教会が自分たちを「狭い門」と言う例です。こうなってしまうと独善的になってしまい、教会がカルト化してしまいます。しかし彼らにとっては自分たちが「狭い門」なので、他の教会の注意や警告も耳に入りません。

ですので自分たちのことを「狭い門」といっている人たちには特に注意が必要だと思います。(かく言う私自身もかつてメシアニックジューの集会に居た時に自分たちを「狭い門」だと思ってました・・・汗。・・・何でも排他的攻撃的なのは危険な兆候と見るべきでしょう。)

結局は人ではなくて自分と神の関係です。どのキリスト教会に居ても背教の兆候はあるし、逆に信仰深い人も居ます。

すみれさんには少し物足りないお答えかもしれませんが、どの人間の集団が「狭い門」かは答えが無いと思います。基本的な教理が正しいプロテスタントの教会なら、どこも同じ(良い意味でも悪い意味でも)と思えば間違いないです。

Posted by モトイ at 2011年01月28日 14:14
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